奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の大本山。法隆学問寺・斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)ともいう。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つ。南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。伽藍は西院と,夢殿を中心とする東院の二つに区画される。1993年〈法隆寺地域の仏教建造物〉が世界文化遺産に登録されている。
歴史
創建については正史に明記がないが,《日本書紀》には606年(推古14)7月斑鳩寺に水田100町を施入したとある。金堂の薬師如来光背の銘文には推古15年(607)用明天皇の遺命によって,聖徳太子が創建したとするが,像の様式や銘文の用語により異論があり,確定的でない。ただ最初の法隆寺が推古天皇の時代に建立されたことは疑いない。太子の私寺として建立された当寺は,648年(大化4)に寺封300戸が施入され,678年(天武7)に支給は停止された。この間670年(天智9)に一屋余さず焼亡した。747年(天平19)の《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》には五重塔の塔本塑像や中門の力士像2体は711年(和銅4)に完成したと明記され,722年(養老6)には寺封300戸が施入されたが,727年(神亀4)には停止された。再建の伽藍の経済的地盤や方法についてはまったくつまびらかでないが,711年ころには今日みる西院の寺観が整備されたとする説が有力で,722年から一時期支給された封は,付属的な建物などの建立に用いられたとも解せられる。再建の寺構は,金堂・塔などを南北に一直線上に配置する様式を改め,これを東西に配置するいわゆる法隆寺式伽藍配置となった。738年(天平10)4月には永世施入の食封300戸が寄せられた。《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》によると,律・三論・唯識(法相)・別三論の4宗の宗団があって研究が行われていた。749年(天平勝宝1)7月には四天王寺など8ヵ寺とともに500町の墾田が認められた。
923-925年(延長1-3)に講堂・僧坊の一部が炎上,11世紀以降は西円堂・綱封蔵・西室僧坊などが倒壊したり炎上したが,その多くは再興されて講堂の修理も行われ,また〈法隆寺一切経〉が勝賢や林幸らの勧進で整備された。鎌倉時代には後白河院・源頼朝の帰依もあったが,中期以降に顕真得業による太子信仰の高揚や慶政による修理が行われ,慶長年間(1596-1615)と元禄年間(1688-1704)の修理を経て,昭和大修理に至った。
西院伽藍の東方に隣接する東院伽藍は上宮王院といい,八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿は,643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮(いかるがのみや)跡に,739年(天平11)僧行信により造営され,北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名である。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。その後方にあるのが講堂に当たる伝法堂で,橘三千代の冥福を祈願して奈良時代に創建されたものである。昭和大修理に際して発掘調査が行われ,斑鳩宮の旧跡が認知された。平安時代に入り東院の復興に尽力したのは富貴寺道詮で,859年(貞観1)修理を施すかたわら水田を施入し,秦致真は1069年(延久1)に《聖徳太子絵伝》を描いて絵殿に納めた。鎌倉時代になると興福寺貞慶は釈迦念仏を始行したが,なかでも京都の西山法華山寺(松尾寺)の慶政は1219年(承久1)ころより舎利殿・夢殿・礼堂などを修造した。慶政は摂政九条良経の長子で関白道家の兄に当たる。慶政の当院再興は道家周辺の貴族を動かし,法隆寺への関心を高めるに至った。近世には,慶長・元禄年間に夢殿・舎利殿・絵殿・伝法堂をはじめとして回廊などが修理された。
現在,1月7日から14日にかけて金堂で吉祥悔過(けか)の修正会が行われ,16日から3日間は夢殿で同じ修正会がある。西円堂では2月1日から3日間薬師悔過の修正会が修され,その結願に鬼追いの式が行われる。
文化財
法隆寺は現存する最も古い寺院として,また飛鳥時代から奈良時代にかけての文化財を,多数蔵していることで知られる。しかし,こうした聖徳太子創立以来の歴史を物語るにとどまらず,各時代の遺構,遺品も豊富で,時代の特色を反映するとともに,南都諸大寺の中でも特異な位置にあったことを示している。
建築
法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と,夢殿を中心とする東院伽藍に分かれる。かつて西院伽藍は飛鳥時代の建築と考えられていたが,長い再建非再建論争の末(法隆寺再建非再建論争),670年に焼失後,再建されたものとの結論に達した。飛鳥時代,創建当初の伽藍は,現在の西院伽藍の南東方にわずかに塔心礎を残し,若草伽藍と呼ばれる。発掘調査により南北に並ぶ塔と金堂,北辺・西辺を限る柵や溝が確認され,いわゆる四天王寺式の伽藍配置をとっていた。一方,聖徳太子の斑鳩宮の故地に,その荒廃を嘆いた僧行信が,739年(天平11)寺をつくったのが現在の東院伽藍で,発掘調査により斑鳩宮の遺構が確認されている。
飛鳥時代の建築は皆無だが,西院伽藍の中心は白鳳時代の建立になる。金堂,塔,中門,回廊が一連の計画のもとにひきつづき造営され,8世紀初めに竣功した。柱の胴張り(エンタシス),皿斗(さらと)つきの大斗,雲斗栱,反りのない一軒の垂木,人字(にんじ)形割束,卍(まんじ)崩しの高欄の組子などが特色で,その源流として2~7世紀の中国や高句麗の建築様式が考えられている。
奈良時代では西院に,経蔵,もと政所の建物であった食堂(じきどう),東僧房である東室があり,東院には八角円堂である夢殿,もと橘夫人家の住宅であった伝法堂がある。このうち西院食堂は,もとは前面の細殿(ほそどの)を礼堂(らいどう)とする双堂(ならびどう)であった。また夢殿は鎌倉時代に大改造をうけている。平安時代の遺構では,西院の講堂,鐘楼,妻室,綱封蔵,羅漢堂がある。講堂は当初桁行8間で,後に9間に拡張され,また創建時,中門から延びて塔・金堂のみを囲っていた回廊も,鐘楼,経蔵とともに講堂と結ばれた。羅漢堂は近在の富貴寺から移されたものである。
鎌倉時代には東室南の一部を改造し,聖徳太子をまつる聖霊院(造営は平安末,1284年(弘安7)全面改築),同様に西僧坊南の一部を改造した三経院,八角の西円堂,細殿,上御堂(かみのみどう),新堂などが西院に遺存する。また西院・東院間北側の宗源寺にはこの時期の四脚門がある。中世には大仏様(天竺様)や禅宗様(唐様)といった新しい建築様式が中国から導入され,従来の和様にもとり入れられるが,中世の法隆寺は興福寺支配下にあって,伝統的な和様の技法を守る工匠が携わったらしく,新たな技法,様式の導入はわずかしかみられない。室町時代以降は子院の本堂や表門等が目だつが,西院築垣が版築による築地として古例である。
彫刻
飛鳥時代の造立になる仏像は,金堂の釈迦三尊像,四天王像,夢殿の救世(ぐぜ)観音像,宝物館所蔵の百済観音像と,現在東京国立博物館にある小金銅仏群(四十八体仏)がある。釈迦三尊は聖徳太子とその妃のため,推古31年(623)止利仏師(鞍作止利)が造ったとの銘があり,四天王像は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)作の銘があって,以後の四天王像と像容をまったく異にする。救世観音と百済観音は対照的な作風で,前者が釈迦三尊などとともに北魏様式を示すのに対し,後者には南朝様式がみとめられ,同じ飛鳥時代ながら法隆寺を舞台に多様な展開があったことが知られる。なお金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
白鳳時代を代表する仏像は,夢違観音の名で親しまれる聖観音像,橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。唐代の,より完成した様式への接近をうかがわせる。また,金堂天蓋,天蓋上の飛天・鳳凰,薬師如来脇侍と伝える2体の観音像,六観音と俗称される愛らしい木造の菩薩像群などがあり,堂内荘厳のため造像された阿弥陀三尊および二比丘の鎚鍱(ついちよう)像(押出仏)もこの期のもの。奈良時代には西院伽藍の完成と前後して,711年(和銅4)五重塔初重の四面に塔本塑像が造られた。仏陀の生涯を立体的に表すもので,塔本塑像として完全に残るのはこれのみである。食堂の梵天・帝釈天像,四天王像は天平塑像彫刻の萌芽期を示し,金堂の吉祥天塑像(旧食堂安置)は奈良時代後期に盛行する吉祥悔過会との関連をうかがわせる。このほか西円堂の乾漆薬師如来像,夢殿の弥勒菩薩像,伝法堂の3組の阿弥陀三尊像などがあるが,この期の肖像彫刻として唐招提寺鑑真像と並ぶ行信像(夢殿)は特筆される。
平安時代に入ると,法隆寺の文化財も密教や垂迹信仰の影響をうかがわせるものがあり,また中世以降盛んとなる聖徳太子信仰の最も早い例が現れる。金堂には吉祥天像,毘沙門天像,地蔵菩薩像がある。このうち地蔵菩薩は大御輪寺旧蔵で,当初は神像であったかと考えられる。講堂に10~11世紀の作とされる薬師三尊と四天王像,聖霊院には聖徳太子および侍者像が残る。鎌倉時代以降は彫刻に見るべきものが乏しく,もっぱら絵画にその中心が移るが,三経院の聖徳太子像,阿弥陀如来像,西円堂の十二神将像などがあげられる。
絵画,工芸
絵画・工芸においても,法隆寺は建築に劣らず多くの優品を伝えている。玉虫厨子は須弥座に描かれた釈迦の本生図で著名だが,伝存しない飛鳥時代建築の様式を知るうえでも貴重である。また扉や内部には押出仏による千仏像がはられている。金堂は西院伽藍中,最も早く完成し,壁画も和銅年間(708-715)以前に完成していたと考えられている。1949年の火災によって内陣長押(なげし)上の小壁を除き無残な姿となって取りはずされ,現在の壁面は模写である。壁面は外陣の大壁4,小壁8,長押上の小壁18,内陣長押上の小壁20面からなり,隈取による陰影法や浄土変相図の構成など,中国敦煌にみる初唐様式の影響がうかがえる。白鳳期の工芸としては,先述した阿弥陀三尊像を納める橘夫人念持仏厨子,唐伝来の蜀江錦が注目される。
奈良時代には庭儀法要のさまをほうふつとさせる伎楽面,舞楽面,響銅(さはり)の金銅鉢,水瓶,また錫杖,柄香炉などの法具がある。百万塔はろくろ仕上げによる木製塔だが,恵美押勝の乱(764)鎮定後,十大寺に10万基ずつ分置されたもので,法隆寺のみに残った。最古の印刷物である陀羅尼を納め,塔にも工人名などを記す墨書がある。なお〈行信願経〉と呼ばれる法華経,大般若経が伝わり,盛唐の書体を受けついでいる。
平安時代の《聖徳太子絵伝》は,太子信仰の遺品として最も早い一例だが,もとは東院絵殿に掲げられていたもので,現在は東京国立博物館に移されている。平安期の密教の浸透を示すものに,〈法華曼荼羅〉〈星曼荼羅〉があり,学問寺としての教学活動の成果を示すものには〈法隆寺一切経〉《三蔵法師伝》《大唐西域記》《維摩経義疏》などの聖教類が伝存する。鎌倉時代には仏像の造像に代わって仏画,曼荼羅の制作が盛んとなる。しかも中世にきわめて隆盛をみる太子信仰を反映する遺品が多い。また《維摩経義疏》《勝鬘経義疏》やいわゆる十七条憲法の版木などがある。
法隆寺献納宝物
法隆寺の文化財のうち,国宝,重要文化財の指定を受けたものは,約200件に及ぶ。このうち61件が,東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている〈法隆寺献納宝物〉である。明治維新後,神仏分離,廃仏毀釈で法隆寺も衰微し,宝物の修理や管理さえままならぬ状況となった。1871年(明治4)以後,古文化財保存の動きが現れ,75年に東大寺大仏殿において,正倉院,法隆寺の宝物を中心とする古美術博覧会が開かれた。このおり,法隆寺からも宝物を宮内省へ献上しようとの話がもち上がり(正倉院宝物は同年に政府管理となり1884年から宮内省管理となる),78年献納が決定した。第2次大戦後,皇室財産から国有と変わり,1964年には法隆寺宝物館が開館した。現在は300余点が保管陳列されている。
法隆寺献納宝物は,仏像のみならず法具,什器など,飛鳥から江戸に至る各種のものが含まれている。しかしおもなものは飛鳥・白鳳期のもので,小金銅仏(いわゆる四十八体仏),伎楽面30点,金銅幡(ばん),灌頂幡,蜀江錦小幡,狩猟文錦褥(きんじよく),各種の法具,文房具など,金工,漆工,木工,染織の優れた美術工芸品からなる。正倉院宝物より一時代前の,しかもまとまって伝存した点においても,きわめて貴重である。