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貝塚

ジャパンナレッジで閲覧できる『貝塚』の国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
〓
貝類の繁殖に適した海岸・湖岸近くに居住した人々が、食料として貝を多量に捕食し、食したあとの貝殻を、他の不用品とともに一定の場所に投棄したため、貝殻が層をなして堆積して今日まで残存したものを一般に貝塚と呼んでいる。縄文時代の貝塚を発掘すると貝層中から埋葬人骨、家犬の埋葬骨などが出土し、また美しく赤色塗料を塗られた台付浅鉢・壺・土瓶形土器などの完形品、全く破損のない鹿角製の釣針・銛などの漁具、頭部に精緻な彫刻を施し赤色塗料の塗られたものもある笄(ヘアーピン)の類、硬玉製の玉類などの各種の装身具などが発見される。貝塚が単なるごみ捨場であれば、これらの彼らにとって貴重なものが貝塚の貝層中からかなりの量発掘されることはきわめて不自然である。まして最愛の肉親の遺体をごみために埋葬することは到底考えられないことである。以上の事実によっても貝塚は縄文時代に海浜・湖沼の周辺にできた単なるごみ捨場でないことは明らかである。日本の縄文時代からの古い風習をよく残しているとされるアイヌは、狩猟による獣類、漁撈による魚などを食した後、その骨類をそれぞれ一定の場所に捨て、その霊を祭り、その霊の再生を祈り、彼らの前に再び重要食料資源としてあらわれることを祈願している。おそらく縄文文化人の貝塚もすべての食料資源の残骸をここに集め、霊を祭りその再生を祈った祭りの場であったと考えられる。したがって最愛の肉親、狩猟の手助けをした家犬なども埋葬して再生を祈ったものであろうか。完形の土器、美しい装身具、漁具などはすべて供献のものと考えれば、貝塚から貴重な遺物が出土することに納得がゆくわけである。貝塚という名称はわが国の古来の地名にあり、貝塚・貝殻畑・蜆塚(しじみづか)などの字名があるところには縄文・弥生または古墳時代の貝塚が所在することが多い。貝殻が塚のように堆積しているためこの名称が起ったものと思われる。また明治時代一部の学者が貝塚を介墟(かいきょ)の名称で呼んだこともある。貝塚は、当時の海岸線の状況によって、その地に棲息する最も多い貝類が異なるため、どこの地方でも同種の貝殻が堆積するとは限らない。岩礁地帯であれば岩礁性の巻貝が多く、奥深い入江の砂泥底であればハマグリ・アサリなどの斧足類(二枚貝)が多いし、入江の奥に河口があり淡水が流入する泥底であれば、そのような場所に好んですむマガキ・ハイガイなど汽水性の貝類や多少海水の流入を見る河口を好むヤマトシジミなどの貝殻の多い貝塚ができる。縄文文化各期の貝塚に堆積する普遍的な量の多い貝類を調査し、各期の海岸線の状況を調べることもできる。塩分の濃い海産の貝類の貝殻を主とする貝塚は純鹹貝塚・主鹹貝塚と呼び、ヤマトシジミ・マシジミなど淡水産の貝殻の多い貝塚を純淡貝塚または主淡貝塚と呼んでいる。貝塚は一般的に太平洋岸に多く、日本海岸には少ない。太平洋岸でも当時沖積平野に海浸が見られ、奥深い入江が最も多かった関東地方に最も多く、北上平野・三陸海岸がこれにつぐ。西九州地方の有明海・八代湾沿岸の熊本県下の沖積平野に面する台上も貝塚遺跡の多いところである。
(江坂 輝弥)


改訂新版・世界大百科事典
貝塚
かいづか
shellmound

過去の人々が貝類を採取し食べた後に捨てた貝殻が堆積してできた遺跡。貝殻の炭酸カルシウムによる土壌中和作用の結果,通常残りにくい人骨・獣骨などがよく保存されるため,当時の人々の食糧・生活や環境の復元に有効な資料が得られる。

日本の貝塚

日本では2000ヵ所以上の貝塚が知られているが,その大半は縄文時代に属し,特に東北地方の太平洋沿岸,東京湾,東海地方および有明海沿岸に濃密に分布する。縄文貝塚の形成は,縄文海進による海水準変動と深く関連する。関東地方を例にあげると最終氷期に-100m以下にあった海水面は急激に上昇し始め,約8000年前の夏島貝塚が形成された頃にはほぼ現在の海水準に達した。縄文海進の最高期は縄文早期末の6500~5500年前に相当し現在の海水準より約4m高位にあり,海域は溺れ谷の奥深く拡大した。この時期の茅山(かやま)貝塚からはマガキ,ハイガイといった湾奥部の貝類が出土している。その後海水準は徐々に低下し,後退した海岸線のあとに干潟ができると貝類の採取もより活発になった。縄文前期には花輪台,幸田(こうで)の貝塚に代表される点列貝塚が形成され,中・後期になると干潟の拡大に伴いU字形または環状の長径100~150mにも及ぶ大型貝塚が多数形成された。姥山,加曾利,堀之内,大森の各貝塚では貝層の下から多数の住居址が検出されている。貝塚を構成する貝類は,地域によって異なり,北日本太平洋岸の大洞,沼津,宮戸島などの貝塚ではアサリの浅海域の貝類が,関東地方ではハマグリ,ハイガイ,マガキのような内湾種が多く,関東以西では高山寺,里木貝塚のようにハイガイの比率が高くなる。一方内陸の河川沿岸にある藤岡,水子,蜆塚などの貝塚ではヤマトシジミなど汽水域の貝類が,琵琶湖沿岸の石山貝塚ではセタシジミが採取されていた。沖縄の荻堂,室川貝塚からはシャコガイ,ヤコウガイなどサンゴ礁に成育する貝類が出土する。貝類以外の動物骨の出土も多く,北海道オホーツク文化期のモヨロ貝塚は海獣の狩猟が注目され,東北太平洋岸の沼津,宮戸島,寺脇,大畑貝塚ではマグロ,スズキ,マダイなど大型魚を対象にした高度の漁労技術が特徴的である。伊川津,吉胡,津雲貝塚からは数十体におよぶ人骨が出土し,縄文人の系統あるいは埋葬法について論じられている。

世界の貝塚

貝塚は世界各地に広く分布する。最も古い貝層を伴う遺跡といわれる最終氷期のフランスのムスティエ文化の洞窟遺跡からは,イシガイなど淡水産のみならず海産のムール貝が出土した。大規模な貝塚は中緯度地帯に多く,著名なエルテベレ貝塚に代表されるヨーロッパ北海沿岸のほか,北アメリカでは太平洋側のカリフォルニア州沿岸,大西洋側のメーン州,サウス・カロライナ州,フロリダ州の河口域,南アメリカ太平洋側のペルー南部からチリ,大西洋側のブラジルの沿岸部に多い。北海沿岸のエルテベレ文化や北アメリカのアーケイック文化にみられるように,貝塚人は海洋適応の結果,定住性の高い比較的安定した生活を送ったと考えられる。東シナ海地域も貝塚の豊富な地域で,日本の縄文土器を伴出する東三洞貝塚や弓山貝塚などの大型貝塚があり,さらに農耕がおもな生業となった後も金海貝塚や羊頭窪(ようとうわ)貝塚のように貝類の採捕は続く。海岸域をはなれて内陸部でも大型陸生マイマイの貝塚が形成されることがあり,アフリカのカプサ文化ではエスカルゴの貝塚があり,東南アジアのホアビン文化,バクソン文化の遺跡からも陸生マイマイが出土する。
[小池 裕子]

[索引語]
shellmound
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25. かいづか-そうへい【貝塚爽平】
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