俳人目安帖
俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。
虚子、冠婚葬祭す~高浜虚子~
高浜虚子は、昭和21年に『贈答句集』という贈答句ばかり280句を四季に分類して収めた句集を出している。岩波文庫版『虚子句集』にも、「慶弔贈答句」という一章がもうけられている。いっぱしの俳人ともなれば、人付き合いのさまざまな折に、色紙や短冊に自作を揮毫するといった機会が多い。虚子ぐらいのビッグネームともなれば、その機会はかなりのものだったことは容易に想像がつく。しかしそれにしても贈答句だけで一冊の句集を編むなどということは、虚子ならばこそという気がする。
『贈答句集』の序で彼は言う。「贈答の句、慶弔の句の如きものは他の意の加はつたものであるから純粋の俳句といふことは出来ないかも知れない。然し、それでゐて平凡な句であつてはならない。他の意味も十分に運び而も、俳句としてみてもなほ存立の価値があるといふものでなくてはならぬ。そこが普通の俳句よりもむづかしいと言へば言へぬこともない」。ここでいう「他の意の加はつたもの」とは、相手への挨拶という主観的な意志がはっきり存在するということである。それを抜きにはできないということである。定型という枠がすでにあるなかに、さらにもうひとつ枠をつくるに等しいのである。なのにどうして虚子が、これほど慶弔贈答句、広くいう挨拶句に力を入れたのかというと、俳人としての勢力拡大に、それが欠かせないものだったからである。単に付き合いでつくったといった程度のものではないのである。ともあれその現物を見てみたい。
きりがないので、このくらいにする。何のためにつくられた句かは前書でわかると思うが、「杣男とは」は選挙応援のための句。代表句とされるものに入るのは「たとふれば」ぐらいで、その多くは平々凡々、駄句といわれてもしかたのない句も混じる。それでも、なにはともあれ“虚子の句”である。虚子先生、御手自ら下される句の有難さはたとえようもないのである。
俳句を定義するのに、山本健吉のいった「挨拶」を持ち出す人が多い。虚子はそれを「存問」といったが、いずれにしても一句独立をめざすよりも、他者との関係の中に俳句の存在理由を見出そうとする姿勢は、「俳句」が「俳諧」であった昔に戻ろうとするのに等しい。泉下の子規の嘆きはいかばかりかと思うが、虚子には虚子なりの見通しと戦略に立った上でのことだったろう。それはあくまで俳句で食べていくということである。文筆で身を立てようと取り組んだ小説では、時流に合わずに挫折。やはり俳句でいくしかないと腹をくくった時に、師であった子規の意志に反することを承知しながら、虚子はこのような保守的な方向に自らの俳句の軸をとるのである。それはできるだけたくさんの弟子をつくること、つまりは江戸の昔の「宗匠」に戻ることであり、自らの結社経営に家元制度を導入することだったのである。
たくさんの弟子たちとの関係を緊密にし、その政治勢力を拡大していくために必要不可欠だったのが、その膨大な慶弔贈答句だったのである。
2004-11-08 公開