俳人目安帖
俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。
秋桜子 バッティング中~水原秋桜子~
ある雑誌か新聞で、水原秋桜子が自宅の庭先で野球のバットを握って、素振りをしている写真を見たことがある。その洗練された抒情的な気品に満ちた作品世界とのギャップで、忘れがたい印象が残っている。野球と俳句との縁浅からぬ関係は、正岡子規に始まるわけだが、秋桜子も俳人では大の野球好きで知られた人。実際にも第一高等学校時代には野球部で三塁手をつとめ、東大医学部時代も友人たちを誘ってさかんにプレーしている。贔屓のチームは西鉄ライオンズ。野球の句も折にふれてつくっている。
といったところが目についた句だが、平凡な作品ばかりで、秋桜子でなければできないといったレベルのものではない。作品でみるかぎり、秋桜子にとって野球は、単なる俳句の素材であって、それ以上のものではない。ただその素振りにうち込む姿には、水原秋桜子という俳人のある本質的な部分がかすかに露呈しているような気がする。
秋桜子が現代の俳句に与えた影響は、句集『葛飾』と「自然の真と文芸上の真」を書いて高浜虚子のもとを去ったことである。『葛飾』は大正8年(27歳)から昭和5年(38歳)までの10年間の作品をまとめたもので、その後も50年以上、彼は俳句をつくり続けるのだが、『葛飾』を越える作品は見出せない。つまり秋桜子は『葛飾』以外には、ほとんど何も書かなかったとさえ言ってよい。しかしそれによって彼の名誉が汚れるわけではない。それほど『葛飾』という句集の後世への影響は大きかった。
これらの句から伝わってくる主観の尊重と新しい叙情を切り開こうとする姿勢は、それまでのホトトギス俳句に飽き飽きしていた若者たちを強烈に惹きつけた。「秋桜子の句は明快で新鮮で、僅か十七字で短歌と全く変わらない自由で豊かなものを感じた」(瀧春一)といったところが平均的なもので、その主宰誌「馬酔木」には篠田悌二郎、高屋窓秋、石田波郷、加藤楸邨といった俊英たちが参集する。
しかし一方で、「雑音の全くない、わるくいえば、キレイゴトの手際を存分にみせた、極めて趣味性ゆたかな他所行俳句」(永田耕衣)、つまり綺麗ごと過ぎて、真実味が薄いという反応が今日まで根強くあるのも確か。たとえば代表作のひとつ「梨咲くと葛飾の野はとのぐもり」の「梨咲くと」の「と」や「とのぐもり」は、明らかに万葉語を使ったもので、短歌の調べを利用して、自然への情感を伝えようとする秋桜子なりの工夫なのだが、句の内面には、もとになった万葉の歌にあった素朴な力強さや肉体性といったものを感じることはできない。
この秋桜子俳句の趣味性、人工性はどこからくるのか。それについては「性生活の結果ばかりを持ちこまれる産婦人科の水原豊博士は、本業から来る反作用で、風景と古美術を愛する俳人になった」という神田秀夫の評が有名である。ここでようやく例の素振りが出てくる。神田説が正しいとすると、秋桜子にとって、その俳句世界はあくまで現実世界を切り離したところに構築されなくてはならない。同様に、産婦人科医・水原豊博士は俳人・水原秋桜子へと変身しなければならない。その変身の儀式が、あの素振りだったのではないか、と思うのだが、こじつけに過ぎるだろうか。
2005-04-11 公開