俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

旅する碧梧桐河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)

漂泊、流浪や貴種流離譚といったものと文芸意識との強い結びつきは、俳句のみならず日本の文学全体を特徴づけるもののひとつであるが、とにもかくにも俳句と旅とは切っても切れない関係にある。なにしろ俳聖芭蕉が漂泊の旅に出る決意をしなければ、今日の俳句は存在しなかったのである(「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」)。旅と俳人といえば、たとえば明治期の俳人では、河東碧梧桐が旅との関係において重要な俳人にまず挙げられるだろう。彼ほど意識的に旅をした近代の俳人はいない。そしてその系統からは山頭火という、まさに旅することとその俳句作品とが一体化してしまったかのような俳人も出現しているのである(「この旅、果もない旅のつくつくぼうし」)。

碧梧桐の年譜をたどっていくと、どれだけ精力的に日本全国を歩きまわったかが、一目瞭然。特に明治38年から44年にかけての二次にわたる全国旅行(『三千里』『続三千里』)での足跡は北海道から沖縄にまで及んでいる。また大正に入ってからは、中国やヨーロッパ、アメリカへ長期間の外遊もしている。同時代、これだけ旅に明け暮れていた俳人は彼をおいていない。生涯をジャーナリストとして過ごしたことや俳壇での勢力拡大のためといったことにも、それは関係するが、「人生百般のこと、生活の背景がなければ、総て無意義であり、又空虚である」(『新傾向句の研究』)とし、あくまでも社会と積極的に関わっていく「接社会的態度」を俳句づくりにも求めたことも大きく関係しているだろう。そこには当時、興隆期にあった自然主義文学運動の影響もうかがえる。というよりも碧梧桐もまた島崎藤村や國木田独歩と同じ地盤の上に立っていることを感じるのである。そして藤村や独歩においても旅は重要な意味をもっていた。

日本における自然主義文学は、明治39年、島崎藤村の『破戒』をもって本格的に始まるとされるが、それは自然主義といいながら、浪漫主義的傾向の強いもので、個人の内面、自我意識をなにものよりも尊重し、自己に倫理の基礎を求めるといったものであった。そして社会における形式的な道徳にとらわれず、また積極的な社会批判にもかかわらないといった特徴をもっていた。それはそっくり碧梧桐の俳句における業績にも重ねることができるのである。

碧梧桐の俳句作品を目にすることは、最近、めっきり減ったような気がする。選集やアンソロジーの類でもほとんど黙殺の観がある。子規門の双璧として、虚子と並び称されただけでなく、一時期は虚子をはるかにしのぐ声望を得ていたことが嘘のようだ。そこにはもちろん後年、「無中心論」を唱え、俳句の定型性を逸脱していった彼自身にも責任があるが、すっかり右傾化、保守化してしまった最近の俳壇の風潮を反映したものであることも間違いない。

  • 行水を捨てて湖水のささ濁り
  • 手負猪萩に息つく野分かな
  • 春寒し水田の上の根なし雲
  • 桃さくや湖水のへりの十箇村
  • 赤い椿白い椿と落ちにけり
  • 白足袋にいとうすき紺のゆかりかな
  • 強力の清水濁して去りにけり
  • から松は淋しき木なり赤蜻蛉
  • ひやひやと積木が上に海見ゆる
  • 馬独り忽と戻りぬ飛ぶ蛍
  • 思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇(ふゆそうび)
  • 空をはさむ蟹死にをるや雲の峰
  • 秋風や道に這ひ出るいもの蔓
  • 旅すればもののうれしき柳かな
  • 相撲乗せし便船のなど時化となり

ほぼ制作順に代表作を並べてみた。これらのほとんどは旅中でつくられたものである。子規は碧梧桐の作品を「印象明瞭なる句」と評したが、その印象明瞭さは現在でも薄れてはいない。季語を使っても、その伝統的美感に依存するのではなく、介在物なく、そのものとピュア-に向き合うといった姿勢が明らかに見てとれる。彼にとっての旅は、日常の澱みを脱することで、この感覚や姿勢をとぎすまし、保つという意味があったのではないだろうか。それは歌枕をたどる芭蕉の旅や職業俳人として指導料を目的に各地を巡った一茶の旅とは明らかに異なる近代の文学者のものだった。

師の子規も碧梧桐に劣らぬ旅好きであった。おそらく病いに倒れることがなければ、碧梧桐以上に旅をしたに違いない。

2004-12-13 公開