俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

たゆたう不器男芝不器男(しばふきお)

芝不器男を論じるとき、「珠玉のような抒情俳句」「夭折の天才俳人」といった言葉がきまって持ち出される。確かにその言葉に偽りはないのだが、この俳人はあまりにパターン化して語られ過ぎているような気がする。26歳で亡くなった地方俳人に、ダイナミックな社会との交渉や後世への大きな影響を求むべくもないのは当然としても、このようなレッテルを貼り、その評価を終えた気になってしまうには、あまりにも惜しい俳人である。遺された作品は二百句余り。その十分の一ほどを選んでみた。

  • 下萌(したもえ)のいたく踏まれて御開帳
  • 摺り溜る籾掻くことや子供の手
  • 永き日のにはとり柵を越えにけり
  • 椿落ちて色うしなひぬたちどころ
  • 麥車馬におくれて動き出づ
  • 人入つて門のこりたる暮春かな
  • 向日葵の(しべ)を見るとき海消えし
  • 虚國(むなぐに)の尻無川や夏霞
  • 風鈴の空は荒星(あらぼし)ばかりかな
  • あなたなる夜雨の葛のあなたかな
  • 町空のくらき氷雨や白魚売(しらすうり)
  • 水流れきて流れゆく田打かな
  • 泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ
  • 寒鴉()が影の()におりたちぬ
  • 白藤の揺りやみしかばうすみどり
  • 栗山の空谷ふかきところかな
  • 落鮎や空山()えてよどみたり
  • 銀杏にちりちりの空暮れにけり
  • 一片のパセリ掃かるる暖爐かな
  • ストーブや黒奴給仕の銭ボタン

俳句をつくることのできた期間はわずか5年余りなのに、「永き日の」「あなたなる」「寒鴉」「白藤の」といったよく知られた名作をものにしているのは、やはり驚異的なことではある。不器男は愛媛県宇和島生まれ。家は比較的裕福で、読書はもちろんのこと、旅行や山歩き、テニスやハーモニカに興ずる明朗で屈託のない青春を送る。造園家を志して東京帝国大学農学部に入るが、夏休みの帰郷中に関東大震災が起こる。不器男はあっさり学業を放棄。そのまま郷里に残る。2年後に東北帝国大学に入るが、ここも2年で中退。つまり社会的な上昇志向もなければ、都市労働者として故郷をあとにせざるを得ない事情もなかった。言ってみれば彼はモラトリアムの季節にあったのである。そして結局、そのまま生を終えてしまう。

この二十句を見ても、作品における彼の興味は、他人としての人間よりも、自分の心性を託した自然、他者との対話よりも自己との対話にあることは明らかである。その脆弱なモラトリアム的世界を批判するのはたやすいだろう。それは不器男の敬愛した芥川竜之介、あるいは堀辰雄や立原道造に通じるものがある。しかしたとえそれが、同時代の他者には開かれたものでなかったとしても、現在のわれわれには充分に開かれてあることは確かである。それは作品の完成度によって、有無を言わさぬ普遍性を得ているからである。

「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」。この繊細さ、優美さ、柔軟さ、そして揺るぎない風格。この句は前書によって、遊学先の仙台に着いたばかりの時、故郷を思ってつくられたことがわかるが、「陸奥の国と伊予の間の真葛かな」が最初のかたち。それがさらに四度も姿を変えて、完成に至る。「の」を軸にして、「あなた」のリフレーンがイメージの波動を広げ、読むものの心の波動に共振していく。石田波郷の「朝顔の紺の彼方の月日かな」を連想する人は多いだろうが、波郷の句にはこの波動の共振は感じない。

また「永き日の」「麥車」「水流れ」「寒鴉」「白藤の」などに見てとれるたゆたうような時間性の定着。これも見事である。麥車がごとりと動き出す一瞬に強くピントを絞ったことで、日常的な時間は解体され、読者を一挙に詩的時間に投げ入れる。万葉集などに学んだ古典的な語法が消化され、作者の呼吸を嫌味なく伝える。

不器男は確かにモラトリアムにあったまま、その人生を終える。たゆたうような儚い一生だった。しかしその作品においては完全にモラトリアムを脱し、凡百の俳人には遥かに及ばない高みに達していたのである。

2005-03-14 公開