俳人目安帖
俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。
お幸せ汀女~中村汀女~
この時代、優れた作品をもつ俳人であっても、それだけで世を渡る、生活を立てていくということは、ほぼ難しい。他に職業をもつのが最も無難だが、できるだけ俳句に専念するためには、結社を経営する、つまり弟子を増やすか、マスコミ活動に邁進する、つまりタレントになるかぐらいしか途はない。この趨勢はますます強まる傾向にある。
戦後、昭和26年の民間ラジオ放送の開始、同28年のNHKテレビの本放送の開始を機に、俳人のタレント化の道がマスコミに向けて大きく開かれるわけだが、中村汀女はその最初のケースといえる。美貌はもちろんのこと、その氏育ちのよさ、向日性などなど、マスメディアが求めるタレントの要件を、彼女は過不足なく満たしていた。昭和53年にはNHK放送文化賞を受賞している。
しかしこのことは別に、彼女が自ら求めてそうしたことではない。結果的にそうなったわけで、あえて言えば人徳というしかないが、まわりをそういう思いにさせるような何かを彼女がもっていたということだろう。それは汀女の俳壇デビューの仕方にもうかがうことができる。
昭和9年にホトトギス同人となっていた汀女だが、まだ個人での句集はもっていなかった。同15年、当時としては画期的な文庫判の句集シリーズ「俳苑叢刊」(三省堂)に、高浜虚子の次女・星野立子とともに、彼女の句集が収録されることが決まると、虚子は立子の『鎌倉』と汀女の『春雪』を≪姉妹句集≫として、それぞれ別の句集なのに、同文の序文を付して登場させるのである。前にも後にもこのようなかたちで句集が出されたケースを知らないが、坪内稔典はその理由として、この『俳苑叢刊』には虚子が≪ばい菌≫として嫌っていた新興俳句系の俳人も多く収録されているので、それらの俳人たちに対抗するために、このようなことを思いついたのではないかと推定している。女流とはいえ、このような過剰ともいえる師の庇護のもとで、汀女は恵まれた俳壇デビューをはたすことができたのである。
ともあれ汀女の第一句集『春雪』をみていきたい。
- さみだれや船がおくるる電話など
- とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
- 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し
- 地階の灯春の雪ふる樹のもとに
- 噴水や東風の強さにたちなほり
- 泣いてゆく向ふに母や春の風
- たんぽぽや日はいつまでも大空に
- 秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
- 枯蔓の太きところで切れてなし
- ゆで玉子むけばかがやく花曇
- あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
- 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな
- 咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
- 毛皮店鏡の裏に毛皮なし
汀女の句は当初から「台所俳句」「厨俳句」などどと呼ばれ、その社会性や文学意識の欠如を非難されることが多かった。しかしそういった先入観を排除して、虚心に読んでみると、まず感じるのは、その安定感である。そしてその根ざしているのが母性というものであることに思い至る。どっかとそこに腰を据えて、揺るぎない。だからといって、凡庸なわけではない。日常の圏内を逸脱することはないが、発想そのものは通俗にとらわれてはいない。とはいっても、やはり全体としてみて「詩」としての物足りなさが、彼女の作品にはついてまわるのも否めないのである。
昭和5年、横浜税関へ転任の夫とともに、汀女は横浜に移り住む。
- 街の上にマスト見えゐる薄暑かな
- ガソリンと街に描く灯や夜半の夏
- アンテナの竿をのぼりし月涼し
- スチームのすでに来てある回転扉
これら横浜で目にした新しい素材を取り入れた句は、同時期、やはり新しい素材にチャレンジしていた山口誓子のたとえば「ピストルがプールの硬き面にひびき」「枯園に向ひて硬きカラア嵌む」などにくらべ、気負いがなく、ごく自然に現代の新しい素材が消化されているようにみえる。それは汀女にとっての現代が、あくまで俳句の素材、対象であったからである。自分もその中で息をし、日々、生を営むものとしての現代ではなかった。だから、俳句としての完成度がいくら高くても、また、しっかりと現代に目を向けていても、読者としては、ある種の物足りなさをどうしても感じてしまうのである。
2006-01-16 公開