俳人目安帖
俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。
夢に舞うたかし~松本たかし~
松本たかしを語るとき、かならずといっていいほど川端茅舎と対にされる。ともに昭和初年のホトトギスにおける有力作家であったというだけでなく、二人ともたかしは能を、茅舎は画業を健康上の理由で断念した上で、俳句に残された生を燃焼させたという共通点があった。しかしそれは外面的なことで、僕は内面的な共通性の方が、少なくとも作品面からみた場合は大きいと思う。それはともに高浜虚子のいう有季定型、客観写生の徒でありながら、それに縛られない、それを突き抜けたそれぞれ独自な広大深遠な作品世界を実現し得たということである。
「時雨傘」までの三句は大正13年、それ以降の四句は15年のそれぞれ「ホトトギス」に掲載されたものだが、「十棹」などは初学にしてすでに後のたかし俳句の特色を十二分に発揮している。
十回、棹をささなくても向こう岸に渡ってしまうほどの川幅だといっているのだが、十棹というのはただの描写ではなく、渡船の船頭の動作をとらえた描写だというところに大きな特徴がある。つまり能舞台の感覚を初めから濃厚にたかし俳句はたたえているのである。
これら代表句の多くは客観写生、花鳥諷詠というにはあまりに演技的である。本人は「能と俳句とは、伝統的な、という点で一致する以外は、全く別種の芸術である」と述べているが、「我去れば」「行人や」における、能のシテを思わせるシンプルで静謐な所作、「炭をひく」「とつぷりと」における、動と静、明と闇との対照は、否応もなく能舞台を思わせるのである。
箱庭というミニチュアを能舞台とすると、この二句では、等身大の舞台の感覚と、物理的な視知覚の世界とが重ねられ、錯綜され、一種の幻想の世界が喚び起こされている。それは江戸俳諧よりも西行、世阿弥の中世につながっている世界である。
俳人松本たかしを一句で集約するとすれば、やはり次の句に至りつくのである。
2005-11-14 公開