俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

意地張り久女~杉田久女~

女流俳人のなかで杉田久女ほど、モデル小説や評伝の対象になってきた人は少ない。松本清張「菊枕」、吉屋信子「底の抜けた柄杓」(『私の見なかった人〈杉田久女〉』)、秋元松代「山ほととぎすほしいまま」、田辺聖子「花衣ぬぐやまつわる……」などなど。女性が俳句に手を染めることが、今日からは考えられないほど困難をともなった時代、自他ともに認める実力がありながら、師や周囲の世界と齟齬をきたし、最後は精神病院で一生を終えた悲劇の女流俳人、といったところが大方が描く久女像である。田辺聖子のものは、そういった従来の歪められた久女像を、丹念に事実を洗い出し、久女を救済しようというモチーフが一貫している。

ともあれ自他ともに認められた実力とはどんなものだったのか。現在でも久女俳句の人気は高く、好きな女流の俳句についてのアンケートをとると、次のような句が上位を占める。

  • 花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ
  • 東風吹くや耳現るるうなゐ髪
  • 足袋つぐやノラともならず教師妻
  • 鶯や螺鈿(らでん)古りたる小衝立
  • われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華
  • 紫陽花に秋冷いたる信濃かな
  • 夕顔やひらきかかりて襞深く
  • 風に落つ楊貴妃桜房のまま
  • 谺して山ほととぎすほしいまま
  • ぬかづければわれも善女や仏生会
  • 朝顔や濁り初めたる市の空

久女が俳句を学び始めるのは大正5年。高浜虚子が女性にも俳句の門戸を開こうと始めた「ホトトギス」誌上の婦人十句集が恰好の指針となった。そして早くも6年1月号の「ホトトギス」の台所雑詠に5句が掲載され、8年6月号には代表句の「花衣」が発表されるのである。同8月号で虚子は「女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐる」と称賛し、彼女の句を「清艶高華」と称えた。

虚子の次女である星野立子に「花衣ぬぎてたたみてトランクに」という句があるが、この違いは歴然で、久女の存在がいかに当時、突出したものであったかがわかろうというものだ。大きく強くものの本質を捉え、かつ丁寧に細部も見せていくというその句作りは、当時の女流俳句のなかでは、際立ったスケール感を見せつけている。

また女流俳句についての関心が強く、江戸時代の俳書もずいぶん蒐集していたようだ。「大正女流俳句の近代的特色」「女流俳句と時代相」といった文章も書いている。その一つの「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」に「いや女が男子にけなされる其理智と感情とを混同したがり、時々は命がけにもなる点。ジョウギで引いた如く万事が理詰めでゆかぬ所。女なんか、とけなされるところに、女性の特色があり、女流俳句の進むべき道があるのではないか?」とある。男と張り合うところに女流俳句の存在理由を見出すのではなく、けなされようとも女性的性情にこそ女性の俳句の活路はあるのではないかという意見には、現在でも同意する人は多いのではないだろうか。

しかし昭和11年、なんの予告も説明もなく、ホトトギス同人を日野草城、吉岡禅寺洞らとともに除籍されてしまう。それについてはいろいろな理由が推測されているが、少なくとも久女については、虚子は彼女のひたむきさが煩わしくなったと、簡単に考えた方がいいようだ。師でありながら、なんというご都合主義だと思うが、これが虚子である。しかもその理由を、彼女の精神分裂にあったと思わせるような曲解した文章を発表する。これが事実に反することは今日では定説になっている。除籍された翌年の「俳句研究」に次の四句を含む「青田風」という十句を発表する。

  • たてとおす男嫌ひのひとへ帯
  • 張りとおす女の意地や藍ゆかた
  • 押しとおす俳句嫌ひの青田風
  • 虚子嫌ひかな女嫌ひのひとえ帯

いちおう意地を張っているのである。しかしこれ以降、急速に俳句への意欲は衰えていく。虚子に嫌われたって、もはや一本立ちしているのだから、いくらでもやりようがあったのではと思うのだが、この女性らしい脆さもまた久女のものなのである。

2005-12-12 公開