俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

石鼎、追いつめらる原石鼎(はらせきてい)

俳人も文学者には違いないわけだから、その一生がどのように幸福だったか、あるいはどのように不幸だったかを論じても、あまり意味はないような気がする。いうまでもなく作品がすべてだからである。でも二、三歩退いて、結社経営やタレント活動こそがすべてと考えている現在の俳句プロパーから見れば、ホトトギスといった大結社を育て上げたセレブな高浜虚子のような存在が、最も幸福な一生を送った俳人なのかもしれない。

原石鼎はどうだったのだろうか。虚子に師事し、いちおうは「鹿火屋(かびや)」という結社を育て、声望も得るが、虚子のように結社と一体化してしまったような感じはしないし、その名に安住していたような感じもない。そこに乖離が感じられる。俳人としての彼の一生は幸福だったかどうかを問うても無意味なような気にさせるのである。ホトトギス育ちの俳人としては例外的に作家性を強く堅持していたのが石鼎だった。彼の表現エネルギーは無駄なくすべて俳句に注ぎ込まれたのではないかと思わせる。大正昭和の先鋭的な俳人たちに石鼎が例外的に好まれたのも、そこに理由があったのではないだろうか。

俳句における表現エネルギーといっても、それががどんなものか。おそらく見たことのある人などいるはずがないし、存在したとしても、人によってそれは形を変えていることだろう。またその人の一生においても、その時々で姿を変えているかもしれない。しかしその現れを間接的には知ることができる。いうまでもなく、作品が残されているからだ。ともあれ石鼎の代表作を見ていきたい。

  • 頂上や殊に野菊の吹かれ居り
  • 花影(かえい)婆娑(ばさ)と踏むべくありぬ(そば)の月
  • 山の色釣り上げし鮎に動くかな
  • 蔓踏んで一山の露動きけり
  • 秋風や模様のちがう皿二つ
  • 淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守
  • 高々と蝶こゆる谷の深さかな
  • この朧海やまへだつおもひかな
  • 花烏賊(はないか)の腹ぬくためや女の手
  • 雪に来て美事な鳥のだまり居る
  • 青天や白き五瓣の梨の花

人によって多少の異動はあるだろうが、これらが代表作であることに異存をとなえる人はいないと思う。このように挙げてきて、気づくのは俳句作家としてのスタートダッシュの素晴らしさである。「雪に来て」と「青天や」がそれぞれ昭和9年と11年の作。ほかはみな明治末年から大正2,3年にかけて、つまり彼の二十代につくられている。大作家にほぼ共通してみられる傾向だが、作家としてのスタートラインで、すでに余人を寄せつけぬ高みに達しているのである。

石鼎という俳人をその伝記的側面に比重を置いてみようとする人は、彼がその十代、二十代に医学に志すも、医科大学の入学に繰り返し失敗し、やることなすことうまくゆかず、その前途を悲観したことが、より強く俳句に向かわせたとつじつまをあわせようとしがちである。たとえば「秋風や」をつくった前年の大正2年の項を第一句集『花影』に付された自筆の年譜で読むと、次のようにある。「余り屢々なる失敗を重ねたる余の言を父も兄も妄りに信ぜざるのみか、俳句を廃し、剃髪して先祖に詫びるに非ざれば資金のこと許し能はず、と。父の言や宜なり。余、終に医を断念して先祖の位牌の前にひざまずく」。事態は深刻である。しかしこの文章から受ける印象は、どことなく芝居がかっているような感じ。確かに深刻な事態に立ち至っていることは、本人自身も感じているのだろうが、ほんとうの気持はとっくに俳句の方へ行ってしまっていて、いやいや背中を押されて出された舞台の上で、医学を断念して、俳句へ向かう自分を演じているような感じなのだ。

石鼎は確かに追いつめられていた。しかし何によって追いつめられていたかというと、それは実生活上の急迫した事情によってというよりも、俳句に向かう表現エネルギーに、もはや本人の肉体が堪えきれなくなるほど追いつめられていたと考えたい。そのエネルギーがぎりぎりまで高められ、ついに大噴火を起こしたのが、大正の2,3年頃の石鼎だったのではないだろうか。

2005-01-17 公開