俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

お帰りやす青々はん~松瀬青々~

松瀬青々の名を聞いたり、目にしたりする機会は、最近、とみに少なくなっているような気がする。しかし彼は明治、大正、昭和の三代にまたがって、ホトトギスに対抗し、関西に「主観俳句」の一大勢力を築いた俳人であった。昭和12年に没した後、俳壇史のエアーポケットに入り込むように、急速に忘れ去られていった理由としては、俳壇即ホトトギスといった時代にあって、その蔭に没してしまったということになるが、その教えである花鳥諷詠、客観写生を奉じる俳人が現在でも大勢を占める俳壇で、やはりその主観俳句は受け入れられにくいのかもしれない。

  • (ふなべり)や手に春潮を弄ぶ
  • まんだまだ暮れぬ暮れぬと(さえず)りぬ
  • 暁や北斗を浸す春の潮
  • あはれなりさかれば鳥も夫婦かな
  • 貝寄せや愚な貝もよせて来る
  • 桃の花を満面に見る女かな
  • 櫻貝こぼれてほんに春なれや
  • 身をよせて朧を君と思ふなり
  • 明け方の夜は青みたり栗の花
  • アッパッパ思ひ(よこしま)なき()かな
  • 日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり
  • 色好むわれも男よ秋の暮
  • 淋しうてならぬ時あり薄見る
  • 話しかけるやうに女が火を焚きて
  • 冬の夜や油しめ木の怖ろしき
  • 蛤も口あくほどのうつつかな
  • 汁ぬくううれし浅蜊の薄色や
  • ものの喩への喉にまで遅日かな

この中で、「日盛りに」だけは彼の他の作品にくらべ、突出して世に知られている句である。一見、写生句のようでありながら、この句が対象としているのは、現実のものというより感覚的な世界である。「視覚を触覚的に推し進むべし」という青々自身の言葉が残されているが、この「音」は聴覚的というより触覚的なものである。しかし少しの誇張も感じさせないのは、この句にみなぎる緊張感のためである。いわゆる写生句ではまったくない。

青々の師といえば、いちおう子規ということになる。しかし二人の句風はまったく対照的で、青々の作品に子規の指導の痕跡を見ることはほとんどできない。子規が写生というコンセプトを俳句に導入したのは俳句革新のためで、そのサンプルとして蕪村の視覚的、絵画的な句を意識的に取り上げる。したがって蕪村の句が濃厚にもっている浪漫的情趣、王朝趣味などの主観的な傾向の句は犠牲になる。ところが青々は、子規に出会う以前に、すでに蕪村の一部分だけではなく、全体を丸ごと自家薬籠中のものにしていたのである。

明治32年の4月、青々は初めて子規に会う。そして同9月に、改めて上京し、「ホトトギス」の編集にたずさわることになる。しかし翌年5月には、それを辞め、大阪に帰ってしまう。わずか八ヶ月の東京滞在であった。その間、なにがあったのか。父親の強い希望も理由なのだが、状況証拠に照らせば、とけ込めなかったと考えるしかない。この年、青々は31歳で、すでに妻と一女があった。それに対して、虚子は26歳、碧梧桐は27歳。学識、教養、人生経験の差は自ずと明らかで、4、5歳若く、実社会に出たことのない、いわゆる書生である虚子や碧梧桐は、青々にとって、いかにも青臭く見えたことであろう。句会においても青々の実力は一頭地を抜いていた。即吟による作句力は抜群で、15分ぐらいで、一題10句などはものともしなかった。だからといって、句の内容が劣るということもなかった。青々の腰の低さについての証言がいくつか残っているが、それは上方文化人のプライドに、在京俳人の風下に甘んずることのなかった青々の矜持が加わって、身を硬く持していたと考えるべきだろう。

青々のまわりには虚子、碧梧桐ら在京俳人による人間関係の壁ができていたのである。それにまた、虚子と碧梧桐の主導権争いも始まっていた。早々に大阪に帰って正解だったろう。そして大阪に戻った青々を中心にして、大阪俳壇の基盤がかたちづくられていくのである。

「徹底的に己が生の栄えを極め、味わい尽そうとする上方人特有のこってりとした生き方を、青々ほど俳句の中に持ち込んで、表現している俳人はいないであろう」(堀古蝶)。青々はその作品も俳人としての生き方も、上方文化人以外のなにものでもなかった。

2006-02-13 公開