近世初頭、打ち続いた戦乱に非業のうちに死んだ人たちの魂を祭る
それに代わって台頭したのが〈若衆歌舞伎〉である。前髪をつけた美少年たちによる踊や狂言の芸能は、すでに女歌舞伎全盛時代から併行して行われていたが、この時に当たってにわかに社会の表面に押し出されてきたのである。若衆歌舞伎は、美少年を主演者として、主として舞や軽業などの芸を演じた。しかし、これも
そこで、若衆の象徴である前髪を剃り落として野郎頭になること、扇情的な舞や踊でなく〈物真似狂言尽〉を演ずることの二条件を受け入れて、翌年再開を許された。これ以後を〈野郎歌舞伎〉と称する。野郎歌舞伎時代、歌舞伎は演劇への道を自覚的に歩みはじめる。女方の写実的な演技術が模索されるとともに、立役・敵役その他の役柄がしだいに成立して、それぞれの演技のくふうが進む。寛文年間(1661‐1673)には〈続き狂言〉が成立し、これ以前の風俗スケッチ的寸劇から、一定のストーリーを持った劇的世界を獲得するに至る。劇の進行に時間的な飛躍を示す記号としての引幕が用いられるようになり、複雑な筋の展開を可能にした。劇場が整備され、役者の数が増加し、見物の層が広がった。野郎評判記が出版されるが、当初の容色本位の野郎讃仰からしだいにその技芸をも評判するようになり、役者評判記の性格を濃くしていく。野郎歌舞伎の時代は、初期歌舞伎における重要な飛躍の時期であり、元禄歌舞伎の準備期間でもあった。
元禄時代(1688‐1704)は、都市町人層の経済的成長と富の蓄積を背景にして、さまざまな庶民文化がいっせいに開花した時代である。歌舞伎はその代表であった。江戸・上方にそれぞれ独自の様式が生まれ、内容の複雑化にともなって役者の役柄が分化・整備され、演技術が確立する。〈
享保から宝暦にかけて(1716‐1764)、歌舞伎は沈滞期を迎えた。その原因の一つに、享保の改革による幕府の弾圧があったのはもちろんである。一方、大坂を中心に人形浄瑠璃が栄え、黄金時代を現出することになったため、歌舞伎は一時その隆盛の蔭に押しやられてしまった。
近松門左衛門が浄瑠璃の作に専心するようになって後、歌舞伎界に名作者が登場せず、役者も元禄期に活躍した名優たちの一時代が終わり沈滞期に入った。近松の《国性爺合戦》が人形浄瑠璃で成功してからというもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移し、各座争って上演する傾向が顕著になる。この傾向は上方に止まらず江戸劇壇にも波及した。この結果、歌舞伎は人形浄瑠璃の蔭となり、「歌舞伎はあれども無きがごとし」と評されるほどであった。《菅原伝授手習鑑》《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》をはじめ、《夏祭浪花鑑》《双蝶々曲輪日記》《一谷嫩軍記》《源平布引滝》など、現代の歌舞伎における〈丸本物〉の代表的レパートリーになっている作品の大半のものは、この時期に創作され、直ちに歌舞伎化されたものである。
このころ、初世瀬川菊之丞・初世中村富十郎ら女方の名優たちの活躍によって、〈所作事〉が確立する。所作事は女方のものとされ、いずれも長唄を地とした。《石橋》《京鹿子娘道成寺》などの原型は、この期に初演されている。たまたまこの時期は江戸文化の革新時代で、上方の文化が江戸に流入した。元文一(1736)年に宮古路豊後掾が江戸に下って語ったところ人気を集めた。扇情的な曲節が幕府の忌むところとなり直ちに禁止されるが、やがてその系列から常磐津節・富本節が、さらにくだって清元節が派生して、いずれも流行した。
宝暦の末ごろに人形浄瑠璃の力が衰えを見せる。歌舞伎は人形浄瑠璃から戯曲構成や演技・演出上に大きな影響を受け、ふたたび活気を取りもどした。とりわけこの時期には舞台機構の面が発達した。セリ上げや廻り舞台がくふうされ、変化に富んだ作劇や演出が可能になった。この面では、上方の名作者初世並木正三の功績が大きい。
明和から安永・天明を経て寛政に至る時代(一八世紀後半)は、とくに江戸における庶民文化の最高潮に達した時である。洒落本・黄表紙・川柳など〈
初世仲蔵を中心として、立役も舞踊を演じることがふつうになり、常磐津や富本を地とする劇舞踊が流行するのもこの時代である。《
天明末から寛政期のころ、江戸歌舞伎に新しい傾向が育ち始めていた。それは演技・演出の写実的傾向である。中村仲蔵・四世市川団蔵・五世松本幸四郎らによって、動作・風俗に〈
江戸歌舞伎の伝統だった〈
文化・文政期には舞踊にも目立った変化が現れた。変化へんげ舞踊(→変化物)の大流行である。これは、元禄以来の一人一役柄の原則が崩れ、いくつもの役柄を兼ねて演じ分けることが名優の資格のように考えられるようになってきたこと、ケレン・早替りの盛行が象徴するように、観客がスピーディな転換を好むようになったことなどの理由により、当然のごとく表れた現象である。変化舞踊は早く元禄期に上方で成立し、以後もっぱら女方舞踊の一様式となり、主に三変化・四変化として行われていたが、文化期には内容・形式ともに大きく変わった。
天保一二(1841)年一〇月、堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として、芝居の取りつぶしが計画された。これは天保の改革の一環であった。町奉行遠山左衛門尉の進言によって取りつぶしはまぬかれたが、江戸三座は浅草の猿若町に強制移転させられた。以後、明治五(1872)年に守田座が新富町へ移転するまでの三〇余年間、いわゆる〈猿若町時代〉がつづいた。
猿若町時代の歌舞伎を代表するのが河竹黙阿弥である。彼は上方から下った世話物の名優四世市川小団次と提携し、音楽劇的に情緒豊かな、その一面に写実を徹底的に推し進めた多くの作品を作った。《
明治維新以後、日本はあらゆる分野で新時代を迎えることになる。新政府のとった文明開化・欧化改良の政策は、当時庶民文化の中心的地位を占めていた歌舞伎にも波及した。江戸歌舞伎の体質は新時代に見合うように改革されねばならなかった。歌舞伎の近代化である。名優の九世市川団十郎は、明治劇団の中心人物であり、しかも進取の気性に富んでいた。そこで、同じ志を抱いていた興行師一二世守田勘弥とともに劇界を代表し、政界・財界・文人たちの後援のもとに、いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ、誇張された様式的演技術を廃し、高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて、新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。その結果生まれたのが、故実を調べ、史実に忠実であろうとした新史劇の〈活歴〉と、内容の高尚な能に取材した新舞踊劇であった。〈活歴〉とは〈活きた歴史〉の意味で、かつてのような類型化された人物創造を廃し、性格や心理描写に力を入れた。一方、五世尾上菊五郎を中心に、従来の世話物の方法を用いながら、明治の新社会の世相や風俗を写そうとする〈
そのころ、シェークスピア劇の影響を受け、一方、団十郎の〈活歴〉に飽き足らなかった坪内逍遙が中心になり、団十郎の方法とは別の新史劇を創造し、これを新時代の国民演劇にしようと運動を起こした。逍遙が明治二九(1896)年に発表した《桐一葉》は、いわゆる〈新歌舞伎〉の幕明であった。これ以後、歌舞伎界の外部にいる文学者たちが、歌舞伎の脚本をさかんに執筆するようになる。これらの作品は、いずれも伝統的な歌舞伎の内容を否定し、西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入するけれども、演技・演出の様式はできるだけ伝統的な方法を生かそうというもので、「古い皮袋に新しい酒を盛るもの」と形容された。こうして生まれたのが〈新歌舞伎〉と呼ぶ一連の作品である。大正期になり、外遊から帰った二世市川左団次は、新しい演劇創造の熱意に燃え、小山内薫・岡本綺堂・岡鬼太郎・山崎紫紅・永井荷風・池田大伍という文学者たちをブレーンとし、毎月一作の新作を上演しつづけた。とくに岡本綺堂との提携で生み出した《鳥辺山心中》《修禅寺物語》などは名作で、新歌舞伎の中でも古典的作品となった。《元禄忠臣蔵》の連作を書いた真山青果の諸作品も新歌舞伎の代表作となって、現代にも演じられている。
近代の歌舞伎は、こうして新時代に即応しようとするさまざまな試みを行ってきたが、大勢としては古典の再創造を繰り返すことがしだいに多くなり、歌舞伎は〈古典演劇〉になった。とりわけ団十郎・菊五郎が相ついで没した明治三六年以後、歌舞伎の危機が叫ばれ、伝統の
昭和四一(1966)年に国立劇場が設立され、国家の重要文化財としての見地から、歌舞伎を保護育成し、その調査研究を促進し、同時に次代の歌舞伎を担う俳優を養成する体制がととのいつつある。また、松竹株式会社の尽力により、国際文化交流の一環として、歌舞伎はしばしば海外公演の機会を持っている。その結果、現在では国際的に正当な評価を得るに至っているといえよう。