歴史

●歌舞伎の黎明

 近世初頭、打ち続いた戦乱に非業のうちに死んだ人たちの魂を祭る御霊会(ごりょうえ)にともなった風流踊(ふりゅうおどり)が全国的に大流行した。歌舞伎踊は、この風流踊を母胎とし、中世的な舞と違って、仮面を着けず、振を揃えて〈踊る〉舞台芸能として成立する。その最初は、出雲大社の巫女の出身と称し、出雲のお国と名のった女性芸能者が京都にのぼり、〈ややこ踊〉と呼ぶ芸能を演じたのに起こる。〈念仏踊〉〈小原木踊〉〈騨(ひんだ)踊〉などの単純な小歌踊を美しく歌い踊った芸能であった。やがて、北野神社の境内で小屋がけしたお国の一座は、当時巷を横行していたかぶき者の風俗を舞台に採り上げた〈歌舞伎踊〉を踊って、当時の貴賤大衆から熱狂的な支持を受けた。お国は男装して伊達なかぶき者に扮し、猿若と呼ぶ道化役を供に連れ、女装の狂言師が扮する茶屋女のもとへ通っていく〈茶屋遊び〉の様子を官能的な踊で演じてみせた。能と同じ舞台を用い、楽器も笛・小鼓・大鼓・太鼓だけであった。〈歌舞伎踊〉という名称が史料に現れたもっとも早いものは、慶長八(1603)年五月のことであった。都市に遊里が設けられると、そこから大勢の遊女が出て、はなやかな群舞による張見世ショーともいうべき舞台を展開し、これを〈遊女歌舞伎〉と呼んだ。このころになると伴奏に新渡来楽器である三味線も加わった。彼女らは芸団を組んで続々と地方に下って巡業した。一方、地方都市にも土着の遊女歌舞伎の座ができ、全国的に流行した。幕府は風俗を乱すとの理由で、寛永六(1629)年に他の女性芸能とともにこれを禁止してしまった。

 それに代わって台頭したのが〈若衆歌舞伎〉である。前髪をつけた美少年たちによる踊や狂言の芸能は、すでに女歌舞伎全盛時代から併行して行われていたが、この時に当たってにわかに社会の表面に押し出されてきたのである。若衆歌舞伎は、美少年を主演者として、主として舞や軽業などの芸を演じた。しかし、これも衆道(しゅどう)の売色を兼ねていたために、女歌舞伎同様の弊害をもたらすとの理由によって、承応一(1652)年に禁止された。

 そこで、若衆の象徴である前髪を剃り落として野郎頭になること、扇情的な舞や踊でなく〈物真似狂言尽〉を演ずることの二条件を受け入れて、翌年再開を許された。これ以後を〈野郎歌舞伎〉と称する。野郎歌舞伎時代、歌舞伎は演劇への道を自覚的に歩みはじめる。女方の写実的な演技術が模索されるとともに、立役・敵役その他の役柄がしだいに成立して、それぞれの演技のくふうが進む。寛文年間(1661‐1673)には〈続き狂言〉が成立し、これ以前の風俗スケッチ的寸劇から、一定のストーリーを持った劇的世界を獲得するに至る。劇の進行に時間的な飛躍を示す記号としての引幕が用いられるようになり、複雑な筋の展開を可能にした。劇場が整備され、役者の数が増加し、見物の層が広がった。野郎評判記が出版されるが、当初の容色本位の野郎讃仰からしだいにその技芸をも評判するようになり、役者評判記の性格を濃くしていく。野郎歌舞伎の時代は、初期歌舞伎における重要な飛躍の時期であり、元禄歌舞伎の準備期間でもあった。

●元禄歌舞伎

 元禄時代(1688‐1704)は、都市町人層の経済的成長と富の蓄積を背景にして、さまざまな庶民文化がいっせいに開花した時代である。歌舞伎はその代表であった。江戸・上方にそれぞれ独自の様式が生まれ、内容の複雑化にともなって役者の役柄が分化・整備され、演技術が確立する。〈(こと)〉と呼んだ、演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では、初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が、武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ、非常な人気を獲得した。一方、京都では、初世坂田藤十郎を代表として、初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。この時代の狂言のおおよその内容は、こんにちに残された狂言本と役者評判記によって知ることが可能である。狂言構成のほとんどがお家騒動の筋であった。大名家の若殿がお家騒動の犠牲となって国を追放され、みすぼらしい町人の姿で昔なじんだ遊女のもとへ訪ねてくるといった場面が仕組まれ、ここで主人公は〈やつし〉の芸を見せた。これが上方の和事の典型的な場面であった。一般的にいって、元禄歌舞伎では、写実的な芸が重んじられた。その趨勢の中で、芳沢あやめらによる女方芸の完成が果たされたのである。敵役や道外方の芸が確立し、重んじられたのも注目すべきことである。また富永平兵衛や近松門左衛門によって、狂言作者が独立の職掌になったこと、役者評判記の記事が容色中心から技芸評へと転換したことなどが、この時期に演劇としての飛躍的な発達を遂げたことを物語っている。

●人形浄瑠璃との交流

 享保から宝暦にかけて(1716‐1764)、歌舞伎は沈滞期を迎えた。その原因の一つに、享保の改革による幕府の弾圧があったのはもちろんである。一方、大坂を中心に人形浄瑠璃が栄え、黄金時代を現出することになったため、歌舞伎は一時その隆盛の蔭に押しやられてしまった。

 近松門左衛門が浄瑠璃の作に専心するようになって後、歌舞伎界に名作者が登場せず、役者も元禄期に活躍した名優たちの一時代が終わり沈滞期に入った。近松の《国性爺合戦》が人形浄瑠璃で成功してからというもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移し、各座争って上演する傾向が顕著になる。この傾向は上方に止まらず江戸劇壇にも波及した。この結果、歌舞伎は人形浄瑠璃の蔭となり、「歌舞伎はあれども無きがごとし」と評されるほどであった。《菅原伝授手習鑑》《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》をはじめ、《夏祭浪花鑑》《双蝶々曲輪日記》《一谷嫩軍記》《源平布引滝》など、現代の歌舞伎における〈丸本物〉の代表的レパートリーになっている作品の大半のものは、この時期に創作され、直ちに歌舞伎化されたものである。

 このころ、初世瀬川菊之丞・初世中村富十郎ら女方の名優たちの活躍によって、〈所作事〉が確立する。所作事は女方のものとされ、いずれも長唄を地とした。《石橋》《京鹿子娘道成寺》などの原型は、この期に初演されている。たまたまこの時期は江戸文化の革新時代で、上方の文化が江戸に流入した。元文一(1736)年に宮古路豊後掾が江戸に下って語ったところ人気を集めた。扇情的な曲節が幕府の忌むところとなり直ちに禁止されるが、やがてその系列から常磐津節・富本節が、さらにくだって清元節が派生して、いずれも流行した。

 宝暦の末ごろに人形浄瑠璃の力が衰えを見せる。歌舞伎は人形浄瑠璃から戯曲構成や演技・演出上に大きな影響を受け、ふたたび活気を取りもどした。とりわけこの時期には舞台機構の面が発達した。セリ上げや廻り舞台がくふうされ、変化に富んだ作劇や演出が可能になった。この面では、上方の名作者初世並木正三の功績が大きい。

●天明歌舞伎

 明和から安永・天明を経て寛政に至る時代(一八世紀後半)は、とくに江戸における庶民文化の最高潮に達した時である。洒落本・黄表紙・川柳など〈(つう)〉を理想とする質の高い文芸が展開するのもこの時期で、都市の消費生活のゆとりを反映して大らかでのんびりした歌舞伎の作劇・芸・演出が喜ばれ、いわゆる天明歌舞伎が開花する。作者では初世桜田治助、役者では初世中村仲蔵が天明歌舞伎を代表する。治助の作品は伝統的な江戸歌舞伎独特の作風を洗練・発展させたもので、全体にはなやかなムードに包まれ、洒脱で機知に富んでいる。奇抜な趣向を立てることにすぐれ、会話も軽みを主として、すらすらと運ばれる。

 初世仲蔵を中心として、立役も舞踊を演じることがふつうになり、常磐津や富本を地とする劇舞踊が流行するのもこの時代である。《双面(ふたおもて)》《関の扉》《戻駕(もどりかご)》などの名作が初演された。桜田治助や金井三笑(さんしょう)も、これらの浄瑠璃を作るのを得意にした。とくに治助は〈桜田の浄瑠璃〉と呼ばれて、この面の才能を高く評価されていた。

 天明末から寛政期のころ、江戸歌舞伎に新しい傾向が育ち始めていた。それは演技・演出の写実的傾向である。中村仲蔵・四世市川団蔵・五世松本幸四郎らによって、動作・風俗に〈正写(しょううつ)し〉――すなわち写生的な物真似の芸――を尊ぶ風が流行し始め、次の文化・文政期(1804‐1830)に〈生世話(きぜわ)〉の演技様式として展開を示す基になった。江戸の文化全般が、〈天明調〉からしだいに移り変わろうとしていた。これを象徴的に物語るのが、上方作者初世並木五瓶の江戸下りである。五瓶は生粋の上方作者で、写生的・合理的な構成、テンポのある筋の運び、人物の性格描写などに作風の特色を持っていた。天明期以前ならば、江戸では迎えられない作風であった。しかるに、寛政期の江戸人は五瓶を歓迎した。寛政六(1794)年一一月、四八歳の五瓶は三世沢村宗十郎とともに江戸に下る。《隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ)》や《五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)》は五瓶の代表作である。彼は寛政八年正月、一番目を《曾我大福帳》、二番目を《隅田春妓女容性》と名題を出した。これ以前の江戸では、一日の狂言は一つの大名題とし、一番目(時代)と二番目(世話)とは何らかのつながりを持たせる作劇法を伝統としていた。そのために、筋立てに非合理な面が出てくるのはやむを得なかった。五瓶が一番目と二番目の内容を切り離し、名題もそれぞれ別のものを付けたのは画期的なことであった。それは、上方では早くから行われていた方法であった。五瓶以後、この形式は必ずしも定着はしなかったものの、上方風の合理的な仕組みの骨格を江戸歌舞伎に注入した功績は大きい。

●化政期の歌舞伎

 江戸歌舞伎の伝統だった〈綯交(ないま)ぜ〉の構成法を用いながら、五瓶によってもたらされた写実的手法をより徹底させて使うという、独自の作劇術を生み出し、〈生世話〉と呼ばれる市井写生劇の基礎を築いたのが、文化・文政期を代表する四世鶴屋南北である。南北の作品に見る、残酷・非情・狂気・怨念のすさまじさは、他に比類を見ぬほどのものである。彼は、封建道徳や武士社会の倫理のタテマエに縛られて生きねばならない人間の悲しさ・はかなさ・むなしさを描く反面、本能的な欲望のおもむくにまかせて、自由奔放に生きている人間の強靭さ・したたかさを存分に描いた。そういう魅力的な人間像は、社会の身分制度から疎外され、底辺を生きる無名多数の男女たちの日常的な生活描写と相俟って、なまなましい迫力をもって見る者に迫る。濡れ場(→濡れ事)・殺し場・責め場など官能的な演技・演出が写実的に繰り広げられ、残酷な局面や怪奇の世界が大胆に舞台化された。滑稽の要素も作風を特色づけている。また、爽快でスピーディなテンポで行われる見世物的演出を劇の中で駆使し、奇抜な趣向を可能にした。たとえば《東海道四谷怪談》に見る提燈抜け・戸板返し・仏壇返し・忍び車など大道具の仕掛、その他鬘や小道具の仕掛を駆使している。だが、南北の才能も、個性の強烈な実力派の役者たちがいてこそ花開いたものである。初世尾上松助(松緑)、五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世坂東三津五郎、七世市川団十郎、三世尾上菊五郎らの実力と個性をよく見極め、彼らの芸の魅力を十分に計算した上での作劇の成功が、南北を名作者たらしめたのである。南北の作品の中で、とくに〈色悪〉〈悪婆〉という新しい人間像の典型が確立したことも忘れられない。

 文化・文政期には舞踊にも目立った変化が現れた。変化へんげ舞踊(→変化物)の大流行である。これは、元禄以来の一人一役柄の原則が崩れ、いくつもの役柄を兼ねて演じ分けることが名優の資格のように考えられるようになってきたこと、ケレン・早替りの盛行が象徴するように、観客がスピーディな転換を好むようになったことなどの理由により、当然のごとく表れた現象である。変化舞踊は早く元禄期に上方で成立し、以後もっぱら女方舞踊の一様式となり、主に三変化・四変化として行われていたが、文化期には内容・形式ともに大きく変わった。変化(へんげ)の数も一挙に七、九、十二変化というように、その数を競う風潮も生じた。舞踊の名手で人気の伯仲していた三世中村歌右衛門と三世坂東三津五郎との対抗が、変化舞踊の流行に拍車をかけた。

●黙阿弥と幕末

 天保一二(1841)年一〇月、堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として、芝居の取りつぶしが計画された。これは天保の改革の一環であった。町奉行遠山左衛門尉の進言によって取りつぶしはまぬかれたが、江戸三座は浅草の猿若町に強制移転させられた。以後、明治五(1872)年に守田座が新富町へ移転するまでの三〇余年間、いわゆる〈猿若町時代〉がつづいた。

 猿若町時代の歌舞伎を代表するのが河竹黙阿弥である。彼は上方から下った世話物の名優四世市川小団次と提携し、音楽劇的に情緒豊かな、その一面に写実を徹底的に推し進めた多くの作品を作った。《蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)》《鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)》《三人吉三廓初買》《勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)》など、現代にも〈黙阿弥物〉の名で名作として伝わる数多くの世話物を精力的に書きつづけた。黙阿弥の作品は、先輩の鶴屋南北の作風を受けながら、それとは質を異にする。黙阿弥は小団次との提携によって〈生世話〉の写生的作劇と演出を一層徹底させる一方、七五調の美しいせりふを朗々と歌い上げ、濡れ場・強請場・責め場といった官能的な場面の描写を写生的に行う反面、清元の浄瑠璃や竹本の利用、さらには下座音楽の多様化と頻用など、主情的な音楽劇風の演出を多用した点に特色がある。黙阿弥の作品には、市井の小悪党を英雄化して主人公としたものが多く、みずから〈白浪作者〉をもって任じていた。

●明治以後

 明治維新以後、日本はあらゆる分野で新時代を迎えることになる。新政府のとった文明開化・欧化改良の政策は、当時庶民文化の中心的地位を占めていた歌舞伎にも波及した。江戸歌舞伎の体質は新時代に見合うように改革されねばならなかった。歌舞伎の近代化である。名優の九世市川団十郎は、明治劇団の中心人物であり、しかも進取の気性に富んでいた。そこで、同じ志を抱いていた興行師一二世守田勘弥とともに劇界を代表し、政界・財界・文人たちの後援のもとに、いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ、誇張された様式的演技術を廃し、高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて、新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。その結果生まれたのが、故実を調べ、史実に忠実であろうとした新史劇の〈活歴〉と、内容の高尚な能に取材した新舞踊劇であった。〈活歴〉とは〈活きた歴史〉の意味で、かつてのような類型化された人物創造を廃し、性格や心理描写に力を入れた。一方、五世尾上菊五郎を中心に、従来の世話物の方法を用いながら、明治の新社会の世相や風俗を写そうとする〈散切物(ざんぎりもの)〉が生まれた。黙阿弥が筆を執ったのである。しかし、〈活歴〉は一般大衆の心をつかむことができずに挫折し、〈散切物〉も新時代に適応するに至らず、ともに成功しなかった。

 そのころ、シェークスピア劇の影響を受け、一方、団十郎の〈活歴〉に飽き足らなかった坪内逍遙が中心になり、団十郎の方法とは別の新史劇を創造し、これを新時代の国民演劇にしようと運動を起こした。逍遙が明治二九(1896)年に発表した《桐一葉》は、いわゆる〈新歌舞伎〉の幕明であった。これ以後、歌舞伎界の外部にいる文学者たちが、歌舞伎の脚本をさかんに執筆するようになる。これらの作品は、いずれも伝統的な歌舞伎の内容を否定し、西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入するけれども、演技・演出の様式はできるだけ伝統的な方法を生かそうというもので、「古い皮袋に新しい酒を盛るもの」と形容された。こうして生まれたのが〈新歌舞伎〉と呼ぶ一連の作品である。大正期になり、外遊から帰った二世市川左団次は、新しい演劇創造の熱意に燃え、小山内薫・岡本綺堂・岡鬼太郎・山崎紫紅・永井荷風・池田大伍という文学者たちをブレーンとし、毎月一作の新作を上演しつづけた。とくに岡本綺堂との提携で生み出した《鳥辺山心中》《修禅寺物語》などは名作で、新歌舞伎の中でも古典的作品となった。《元禄忠臣蔵》の連作を書いた真山青果の諸作品も新歌舞伎の代表作となって、現代にも演じられている。

 近代の歌舞伎は、こうして新時代に即応しようとするさまざまな試みを行ってきたが、大勢としては古典の再創造を繰り返すことがしだいに多くなり、歌舞伎は〈古典演劇〉になった。とりわけ団十郎・菊五郎が相ついで没した明治三六年以後、歌舞伎の危機が叫ばれ、伝統の(かた)の記録と保存の必要が唱えられるようになった。この時代に演出が固定したことになる。しかし、これ以後も関東大震災、第二次世界大戦などに際して、しばしば危機が叫ばれながら、そのつど不死身のようによみがえって、こんにちまで商業演劇としての中心的地位を譲ってはいない。

 昭和四一(1966)年に国立劇場が設立され、国家の重要文化財としての見地から、歌舞伎を保護育成し、その調査研究を促進し、同時に次代の歌舞伎を担う俳優を養成する体制がととのいつつある。また、松竹株式会社の尽力により、国際文化交流の一環として、歌舞伎はしばしば海外公演の機会を持っている。その結果、現在では国際的に正当な評価を得るに至っているといえよう。

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