江戸時代の初期には、興行は割合自由に行うことができたが、幕府の庶民生活に対する弾圧が厳しくなるのにつれて、しだいに興行権にも制度が加えられるようになった。興行は願出によって免許を与える許可制で、興行権を与えられた者だけが〈櫓〉をあげて興行することができた。江戸では、元禄期には中村座・市村座・山村座・森田座の四座が官許の劇場として、それぞれ堺町・葺屋町・木挽町五丁目で興行を行っていた。このうち、山村座は、正徳四(1714)年の江島生島事件によって興行権を奪われたため、三座となり、以後明治初年に至るまで〈江戸三座〉の制が守られていた。もっとも、中村・市村・森田の三座が都合によって興行不可能の時に限り、あらかじめ定めてある者が代わって興行することが許されていた。中村座には都座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が代わりうる定めであった。中村・市村・森田の三座を〈
上方の劇場は、大坂では承応二(1653)年に六つの劇場の興行が許されたが、元禄期には京都・大坂ともに四つになった。これも、幕末にはごく少なくなり、大劇場は京都では四条北側・南側の二座、大坂では道頓堀の中の芝居と角の芝居だけとなっている。
これら常設的な大劇場(町奉行の支配を受けた)のほかに、宮地や社地には、寺社奉行の支配下にある小芝居が数多く存在した。これらを〈笹櫓〉〈宮地芝居〉〈百日芝居〉などと称する。
興行の機構は、江戸と上方とでは違いがあった。江戸では、興行権を与えられた者(中村勘三郎・市村羽左衛門・森田勘弥)を〈座元〉(太夫元)といい、世襲制であった。〈座元〉は、興行権の所有者であり、実質上の興行師であり、劇場の持主でもあった。興行上の経費は複数の〈金主〉に出資してもらうのであるが、座元の権威は絶対的なもので、芝居関係者から格別の尊敬を受けていた。
これに比して、上方の場合は非常に特色があった。まず〈名代〉という者の存在である。〈名代〉は興行権の所有者である。江戸の場合、〈名代〉がすなわち〈座元〉本人であったから、とくに〈名代〉の名義を必要とはしなかったが、上方ではこれとは別に〈座本〉がいたため、〈名代〉が重要な意味を持ったのである。
〈座本〉は本来は興行師であった。しかも芸の実力と人気を兼備した役者であった。座本になる役者は、初期には道外方や親仁方といった老巧の脇役者であったが、しだいに立役がとって代わり、さらに若手の人気役者へ移っていく。その過程で、興行師としての手腕のまったくない座本が出て、興行不振に陥ったとき、役者座本に代わって実質上の興行者になったのが、〈芝居師〉(後の〈
次に劇場の建物である。劇場は〈名代〉とは関係なく、やはり官許制によって制限されていた。そこで、〈銀方〉の出資を受けたうえ、〈名代〉〈座本〉〈劇場主〉の三者の提携が成って、はじめて正式に奉行所に文書を提出し、興行の許可を求める手続きをすることができたのである。
江戸の場合は興行の中心に〈座元〉がいて、興行上の負担のすべてが、最終的に座元個人の上にかかってきた。それに対して上方の場合は、不入りで損害を被ったとき、個人の負担が三者で分割され、比較的軽く済むという利点があった。それだけ、格式よりも合理的な計算を土台にした分業のシステムだったといっていいであろう。
前述のとおり、江戸時代には役者との雇用関係は一年契約が原則であった。これと関連して、興行のシステムも一年間を一サイクルとして行われていた。毎年一一月が新年度の初めで、役者との契約期間も、一一月から翌年一〇月までの一年間とした。そこで、年度最初の興行を〈顔見世興行〉と名づけ、新しい座組の顔ぶれや作者の力量を披露するのに重点を置く特別興行を行った。興行者は年間の興行成績を占う意味からこの興行の成功に心を砕き、数々の行事や看板・積物など劇場の装飾によって前景気をあおりたてた。劇場と運命共同体の関係にあった芝居茶屋も屋根庇の上にそれぞれ趣向を凝らした作り物を飾り、無数の堤燈を吊って、芝居町全体がはなやかな祭の雰囲気に包まれるように演出した。狂言は〈顔見世狂言〉と名づける独特な作劇法に即した狂言で、多彩な顔ぶれの役者を見せるのにふさわしい〈世界〉を選び、ストーリーよりも、役者個々の〈時代事〉と〈世話事〉との両面の演技を十分魅力的なものとして引き出し、観客に見せることに主眼が置かれていた。江戸では、必ず〈暫〉の場面が入るなど、儀式的な色彩も濃い。
年が改まると、各座新狂言を出す。江戸では〈初春興行〉といい、享保期以後は各座とも曾我狂言を上演することが習慣となって定着した。上方では〈二の替り〉と称し、年間の興行のうちもっとも演劇的な内容を重視した狂言を演ずることとし、必ず廓の場面がある約束で、外題に〈けいせい(傾城・契情)〉の文字を含ませる習慣があった。江戸の例でいうと、初春興行の曾我狂言に立てた大名題はなるべくそのまま残し、三月の〈
六、七月は原則として芝居を休んだが、後には〈夏芝居〉といって、ふだんは大役をもらえない低い地位の役者を中心にし、入場料の安い勉強芝居を興行することがあった。文化・文政期になると、大立者も参加して、夏向きの狂言を演ずる特別興行を行うこともあった。九月は〈秋興行〉または〈菊月興行〉と呼び、年度における最後の興行であることから〈御名残興行〉ともいった。秋は時節の気分に合わせて、しんみりと落ちついた狂言が演じられた。丸本物の狂言がよく上演されたのは、その条件に適ったからである。このように、劇場の興行は一種の年中行事のような約束を踏まえて運営されていたのである。
右の興行のほかに、正月一日の仕初め(式三番叟)、二月初午の稲荷祭、五月二八日の曾我祭、六月の土用休み、九月一二日の世界定め、一〇月一七日の
劇場が毎月一興行を行うようになったのは大正以後のことで、松竹は専属俳優を毎月出演させる慣習を作った。