歌舞伎は近世初頭に京・大坂・江戸を中心とする都市で成立し、都市の芸能として、その繁栄の象徴となって発展したものであった。しかし、お国歌舞伎やそれを模倣した遊女歌舞伎の芸団が続々と地方に向けて下り、かつ地方都市には土着の遊女歌舞伎の芸団も生まれて、ほとんど全国で歌舞伎興行が行われたことが記録に残っている。中央と地方との交流は早くから活発になされていたと思われる。元禄期には、すでに〈地役者〉または〈地廻りの役者〉と呼ばれる旅興行の歌舞伎がかなり広い範囲にわたって行われていたと考えられている。初めは職業的な芸能団による興行だけであったが、やがて享保のころには農民自身が歌舞伎を演ずる傾向も見えるようになる。
幕府は〈地芝居〉を弾圧する方針で、しばしば禁止令を出した。なかでも、寛政の改革、天保の改革に際しての弾圧は格別に厳しいものであった。しかし、度重なる弾圧にも屈せず、〈子供手踊〉〈狂言踊〉〈かくれ踊〉などの称に隠れて歌舞伎を演ずるなど、干渉をまぬかれるための苦心をして〈地芝居〉は続けられた。文化・文政期以後に、地芝居は広く地方の農村に浸透し、隆盛を極めた。幕末から明治初期にかけて、もっとも盛んだったといわれる。第二次世界大戦後は、農村にも娯楽多様化の波が押し寄せ急速に衰退、他の民俗芸能と同様かろうじて山間の村に残り、保存会の手によって守られているのが現状である。
地芝居の多くは、鎮守社の祭礼や雨乞い、盆の先祖供養などの宗教的行事の機会に、一日あるいは三日というようにごく短い期間を限って催され、土地の若衆組や青年団の若者によって演じられる。村の神社の境内に、このための舞台が常設されているところが多かった。現在、歌舞伎そのものは絶えてしまったが、舞台だけが残っているところは諸地方にあり、貴重な資料を提供している。常設舞台に対して、必要に応じて組み立て、上演が終了すれば直ちに解体してしまう組立式舞台もある。また、近江長浜の曳山、栃木
地芝居の演目として伝承し、上演される狂言は、中央の都市で演じる演目と共通であるが、《絵本太功記》十段目、《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》《源平布引滝》《奥州安達原》などの丸本物が圧倒的に多いのが特徴である。そして、内容が雨乞いや虫送りなど土地の民俗と結びつけられ、強調されることがある。一方、土地によっては特定の狂言を忌避し、決して演じてはならないとされている例も見当たる。そうした点に、民俗の中に溶け込み、素朴な呪術性・宗教性を持ち伝えている地芝居の特色を見ることができる。
地芝居には、土地の農民自身が演ずるもののほかに、〈買芝居〉〈
現在も伝承されている地芝居の代表的なものには、山形県酒田市黒森の黒森歌舞伎、福島県南会津郡