歌舞伎は俳優の芸を中心として成り立つ演劇であった。したがって、俳優が歌舞伎の構造の上に占める位置は極めて大きかった。しかし、社会的には河原者・河原乞食などと呼ばれ、士農工商の四民以下に属させられていた。彼らは一般には〈役者〉と呼ばれた。社会的にいやしめられる身分であったが、大衆の側からは人気スター、市井の英雄として憧れられる存在であり、名優は破格の高給を得て、豪奢な生活をしていた。そのぜいたくな生活ぶりが、しばしば幕府の弾圧を受けている。役者の給金(→身上)は、江戸時代には年給で定められ、最高額の基準を千両としたことから〈千両役者〉の称も生まれた。実際には、千両を超す年給を得る役者もいた。寛政期(1789‐1801)に、あまりの年給高騰に音をあげた興行者側が幕府に願い出て、命令によって最高額を五百両に押さえるという事態も招いた。それでもなお、加役料・よない金などの名目で給金の上乗せが行われ、実質は七百両、八百両を取る役者が何人もあり、やがてもとのままに復してしまう。
役者は芸名のほかに、屋号と俳名を持っていた。市川団十郎を成田屋三升、尾上菊五郎を音羽屋梅幸、沢村宗十郎を紀伊国屋訥子、中村歌右衛門を成駒屋芝翫というように、通人は役者を屋号と俳名とで呼ぶこともあった。屋号・俳名は、ともに社会的に不当に差別されていた役者たちが、一般町人や文人と対等の社交をするうえでの称号であったと考えることもできる。現代の俳優は俳句を教養としてたしなむ人も少なくなり、その社会的地位も向上しているので、俳名の必要性はなくなった。屋号は役者の〈家〉観念重視の象徴となり、家紋とともに現代にあっても強く意識されている。〈大向う〉からの〈掛け声〉は観客が贔屓役者にかけた〈褒め詞〉の変型であろうが、この時に芸名を呼ばず、屋号を呼ぶ伝統はいまも生きている。役者は〈家の芸〉の伝承と創造にかかわる家系・門閥を格別に重んじる。芸名は幼名にはじまり、あたかも出世魚のごとく一定の段階を踏んで次々と改められていく例が多い。そのほとんどの名前(名跡)は世襲で、実子・養子・兄弟・実力のある高弟などによって襲名される。役者は年齢的にも、芸の実力や人気の面でも成長したと認められたとき、あるいは父の急死によって後継者の成長が待望されるときなどに、一段上の芸名をつぐ。これによって、周囲の見る目も変わってくるし、興行者の待遇もよくなる。従来よりいい役が付くことにもなる。むろん本人の自覚あってのことであるにしても、襲名は確実に役者を脱皮させ、大きく成長させる。そこが歌舞伎役者の不思議なところである。大幹部や花形役者の名前が並ぶだけで、おのずからはなやかなイメージが生じるのも、役者の名跡が持つ特別の魅力によっている。
封建的身分制社会の中で、さらに特殊な閉鎖的社会を構成していた役者の世界は、職人社会における徒弟制度にも共通するきびしい階級制を持っていた。一座の最高の地位にあり、座のメンバーを統率するとともに、その興行を成功させる責任をも持つのが〈座頭〉である。一座の女方のうち最高位の役者を〈立女方〉というが、女方は原則として座頭にはならなかった。座頭に準ずる役者を〈立者〉という。一般の役者はこれに続くが、階層の区分は時代によって変遷があった。もっとも古くは、〈立者〉と〈詰〉に分けられていたものが、のちに〈名題〉と〈中通り〉〈下立役〉の三段階となった。次にはその間に〈相中〉を作って〈名題〉〈相中〉〈中通り〉〈下立役〉の四段階に分けられた。〈下立役〉は〈稲荷町〉とも呼ぶ。次の段階になると〈相中〉の中の上中下三階級の上分が独立して〈相中上分〉を作るため、〈名題〉〈相中上分〉〈相中〉〈中通り〉〈下立役〉の五段階となる。さらには〈相中上分〉のうち、とくに名題昇進の近い者を〈名題下〉と称し、〈中通り〉と〈下立役〉を合わせて〈新相中〉を作ったため、〈名題〉〈名題下〉〈相中上分〉〈相中〉〈新相中〉の五段階が明治期における階級構成になっていた。現代では、こうした複雑かつ厳格な何段階もの区別はなく、ただ〈名題〉(幹部を含む)と〈名題下〉とに大きく区分されているばかりである。むろん両者は待遇面に大きな差があり、〈名題試験〉によって昇進の機会が与えられている。
江戸時代の役者は、楽屋の部屋の位置もはっきりと身分の差別をつけられていた。江戸の例でいうと、三階には奥に座頭の部屋、その他の立者の部屋が席順に並び、名題下・相中などの下級の役者が雑居する大部屋が設けてあった。いまも地位の低い俳優を総称して〈三階(さん)〉とか〈大部屋(さん)〉のように呼ぶ習慣が残っているのは、江戸時代の楽屋の位置にもとづいている。もっとも、江戸時代には劇場の三階建が禁じられていたため、楽屋の実際の二階を〈中二階〉、三階を〈本二階〉と称して、表向き二階建築のように装った。その二階には女方だけがいたことから、女方を〈中二階〉と呼ぶことも起こった。一階には最下層の役者である下立役(〈稲荷町〉〈若い衆〉〈お下〉などともいう)が雑居する部屋があった。〈稲荷町〉とも呼ばれたこの人たちは、劇場に付属していたため他座に移るということもなく、楽屋風呂にも入れてもらえず、近くの銭湯に行くといった差別的な待遇を受けていたが、年一度の楽屋行事である二月初午の日の〈稲荷祭〉は、彼らの手によってすべてが執り行われるならわしになっていた。
歌舞伎役者は〈役柄〉によって分かれていた。江戸時代中期以前には、〈立役〉〈若女方〉〈若衆方〉〈敵役〉〈実悪〉〈道外方〉〈親仁方〉〈花車方〉などの分業が確立しており、一人一役柄の原則が守られていた。〈若衆方〉や〈若女方〉の役者の中で、年齢的に無理になったと判断して他の役柄に転ずる者もあったが、その転向には厳しい眼が向けられており、また二つの役柄に同時に属するといったことはありえなかった。役者評判記は、まず役柄によって部を立て、それぞれの部の中で役者に位を付けて並べ、個々に批評を記す形式が確立していた。
中期以降しだいに一人一役柄の原則が崩れ、文化・文政のころになると、一人の役者がいくつもの役柄を兼ねて演じ分けることを良しとする風潮さえ生まれた。三世中村歌右衛門から、〈兼ネル〉というのを名優の名誉ある称号であるとすることも始まった。現在では、その俳優の芸風や人柄(容姿をもとにした芸域)、年齢などによっておのずから制約はされるものの、そのかぎりではいくつかの役柄を兼ねる例が多い。女方の中で、女方以外の役柄は絶対に演じない俳優を、とくに〈真女方〉ともいう。幕末期以降、若女方が若衆方や立役を兼ね、たとえば五世岩井半四郎のように、若衆の役や荒事師の役まで演じるといったことが行われるようになって後の称であるのはもちろんである。なお、〈女方〉を〈女形〉、〈若衆方〉を〈若衆形〉とするように、〈方〉を〈形〉の文字でも表記するのは、すでに元禄ごろ以来の慣用であった。元来は〈男方〉と〈女方〉とを区別するところから始まった用語のゆえに〈方〉の表記が原義を伝えている。
現在は、〈役柄〉という用語の概念が広義に使用されるようになり、〈役どころ〉というのに相当する役の類型を意味している。現在、歌舞伎作品の様式の中にあり、独自の演技術(鬘・化粧・衣裳・せりふ術・演技などを含む)を必要とする〈役柄〉の種類の例は、別表のようになる。
歌舞伎の役柄の中で、とくに女方の存在は歌舞伎の特色の一つとして特筆に価する。女方は、幕府による女性芸能者いっさい禁止の結果、やむを得ぬ手段として成立したのであるが、古代以来日本の芸能史では〈物真似〉の芸は男性が受け持つ伝統があったために、比較的すなおにこの特殊な役柄が定着したのであった。元禄期の初世芳沢あやめ、享保期の初世瀬川菊之丞らの芸談や逸話を見ると、彼らが女性の物真似を徹底するために、日常を本当の女性の心で暮らすことなど、肉体を責める厳しい修業をみずからに課していたことを窺い知ることができる。