歌舞伎の劇場は、江戸時代には〈芝居〉または〈芝居小屋〉と呼ばれていた。発生的に見ると、初期の女歌舞伎・若衆歌舞伎の時代には先行の勧進猿楽の舞台を襲用し、見物席は屋根を持たない〈芝居〉(芝の生えている場所の意)であった。屋根の付いた
舞台機構で注目すべき特色は、花道と廻り舞台を備えていることである。花道は、初期歌舞伎が襲用した能舞台における橋掛りの〈道としての機能〉が、舞台全体の拡張の中で失われていったのに代わり、見物席を貫通する形で出現したものであり、はじめは仮設のものだったらしいが、享保期には常設の機構として確立している。花道は、舞台の延長であったり、舞台とは別の空間であったりして、〈歩く芸〉を印象強く見せるのに効果的に用いられる。役者と観客との親しみや交歓のためにも有効である。作品によっては、東の方にある〈東のあゆみ〉を花道としても利用し、〈東の花道〉と呼ばれた。近代になって、〈本花道〉に対する〈仮花道〉の称も用いられるようになった。これは、ふだんは設けていない東の花道を、とくに仮設するようになって以後の名称である。〈本花〉〈仮花〉と略称することもある。花道を使っての
廻り舞台は、江戸中期の宝暦八(1758)年、大坂ではじめて大劇場で使用された。初世並木正三の業績とされる。これによって、舞台の転換がスピーディに行えるようになり、作劇の面でもいっそう自由な場面構成を採ることが可能になった。舞台機構の発達が、すなわち歌舞伎という演劇の発達をうながしたのである。〈セリ〉〈がんどう〉〈
観客席は、初期にあってはのちの土間どまに相当する〈芝居〉と貴人のための〈棧敷〉との区分しかなかった。時代が下ると複雑な区画が生ずるが、それにしても基本は、上の見物のための〈棧敷〉、下の見物のための〈土間〉の二区分が意識されていた。江戸中期に、劇場の建築および内部様式が確立する。それ以後、東西の二階棧敷、一階棧敷(〈
明治五(1872)年都心に新進した新富座で、外国の劇場の影響を受け、一部椅子席を設置して以後、従来の
一方、舞台の間口は江戸時代には六‐七間を理想としたものであるが、現在の歌舞伎座が一五間、国立劇場(大劇場)が一二・二間と約二倍に長くなっている。これは、近代の大劇場主義と奥行をそれほど延ばさないで観客席を広くしようと意図した興行師による改革であり、結果的に歌舞伎の質を変える方向につながった面を否定できない。
また、明治四四年に帝国劇場が創設されたとき、西欧流の本格的な額縁式舞台となり、歌舞伎劇場独特の伝統的な張出し舞台は姿を消してしまった。