一九八〇年代の歌舞伎界は、一言で言えば戦後歌舞伎を支えてきた俳優たちが芸の集大成を見せ、同時にそれに次ぐ世代が大役を体験、人気を高めてきた時代であった。
八〇年の三月歌舞伎座で花形世代による《仮名手本忠臣蔵》の通し上演が行われた。五世中村富十郎を上置きに、六世市川染五郎(現九世松本幸四郎)、二世中村吉右衛門、十世市川海老蔵(現一二世市川団十郎)、片岡孝夫(現一五世片岡仁左衛門)、五世坂東玉三郎、五世中村勘九郎(現一八世中村勘三郎)らの一座で、主な役を月の途中で交替するダブル・キャストによる上演であった。この公演は若い観客に好評で満員になった。同じ八〇年の七月、歌舞伎座で三世市川猿之助が《義経千本桜》の知盛、忠信、権太の三役を演じ、全段通し上演を果たした。この二つは新世代の台頭を示す象徴的な公演になった。
一方八一年には、一一月と一二月の二ヵ月にわたって国立劇場で《菅原伝授手習鑑》が通し上演された。一三世片岡仁左衛門、七世尾上梅幸、一七世中村勘三郎、一七世市村羽左衛門、三世実川延若らに中堅、若手が加わった一座だったが、仁左衛門の菅丞相が絶賛され、梅幸、勘三郎らのコクのある演技が観客を魅了した。さらに八六年には国立劇場開場二〇周年を記念して一〇月から三ヵ月にわたって《仮名手本忠臣蔵》が上演された。二世尾上松緑は病気で出演できなかったものの、六世中村歌右衛門、仁左衛門、梅幸、勘三郎、羽左衛門、三世河原崎権十郎らが顔を揃えた大舞台で、この二つが戦後歌舞伎の集大成を見せる最後の公演になった。
七〇年代後半から八〇年代にかけて戦後歌舞伎を担ってきた俳優たちは芸の円熟期を迎えたが、同時に肉体的な衰えも隠せなくなり、次の世代へ演目や芸のバトンタッチが行われた。八〇年の《忠臣蔵》はまさにそんな意味を持つ公演だったが、そうした状況を象徴するように新しい世代の俳優が大きな名跡を継ぐ襲名公演が次々と行われた。
八〇年には八世坂東彦三郎、八一年には萬屋一門の五世中村時蔵、五世中村歌六、三世中村歌昇が誕生、同年一〇、一一月の二ヵ月にわたって八世松本幸四郎が初世松本白鸚を名乗り、息子と孫がそれぞれ九世松本幸四郎、七世市川染五郎を襲名する三代の襲名が歌舞伎座で行われた。しかし当の白鸚はすでに体調が優れず翌年一月に逝去した。続いて八三年四月には二世中村鴈治郎が逝去した。
大襲名の最後を飾ったのは八五年四月から三ヵ月にわたった一二世市川団十郎襲名で、猿之助一門を除く歌舞伎の全俳優が出演、歌舞伎ブームを巻き起こした。七,八月にはアメリカでも行われ、世紀の襲名になった。この後も八七年に九世市川団蔵、八七年に九世坂東三津五郎、五世坂東秀調が誕生している。
八〇年代の前半は松緑が歌舞伎十八番の復活に意欲を燃やし、歌右衛門、勘三郎、仁左衛門、梅幸らが自分たちの当り役を次々と演じ、歌舞伎の芸の面では最も充実した時代だったが、観客の入りは必ずしも良くはなかった。それは若い観客が増え、わかりやすい歌舞伎、美しい歌舞伎、さらに話題性の強い公演を求めたことに理由があった。
そんな観客の好みに合い興行面で歌舞伎を支えたのは、猿之助や、孝夫(現仁左衛門)と玉三郎の〈孝玉コンビ〉に代表される花形世代であった。猿之助は古狂言を現代の若者向けにアレンジし、スピード、スペクタクル、ストーリーの面白さに満ちた猿之助歌舞伎を続々と創造して上演、孝玉コンビは二人の透明感のある芸質を生かした舞台を作り、清潔を最高の美とする若い観客の人気を集めた。
関西の歌舞伎は長らく不振をかこっていたが、七九年に二世沢村藤十郎が大企業の労組と提携して〈関西で歌舞伎を育てる会〉を朝日座で発足させた。八〇年から中座に移り毎年六月に歌舞伎公演を上演し、新しい歌舞伎観客を育成した。九二年に〈関西・歌舞伎を愛する会〉と改称した。この〈育てる会〉がきっかけになって、関西の歌舞伎公演は徐々に増え始めた。八二年二月に大阪・新歌舞伎座で猿之助が《源平布引滝》《黒塚》などを上演、京都南座では孝玉コンビが《桜姫東文章》を上演、共に大入りを記録した。関西地方で同月に歌舞伎が上演され、共に大入りになったのは記録的なことであった。
こんな流れの中で八二年九月には新橋演舞場で勘九郎、五世坂東八十助(現一〇世坂東三津五郎)、五世中村児太郎(現九世中村福助)らが大役を務める《忠臣蔵》が上演され評判を呼んだ。
大幹部たちの第一世代、七世中村芝翫、二世中村扇雀(現四世坂田藤十郎)、五世中村富十郎ら昭和一桁生れの第二世代、猿之助、幸四郎、団十郎、七世尾上菊五郎ら昭和一〇年代生れの第三世代に対し、戦後生れの第四世代が,新しいスターとして台頭してきたのである。
八三年三月には歌舞伎座での孝玉コンビの《助六》が大入りを記録している。
若い観客の増加は歌舞伎の場を広げることにもつながった。浅草公会堂を使った浅草歌舞伎が八〇年一月から始まった。地元の商店街が浅草の繁栄策の一つとして企画したもので、第一回公演には吉右衛門、玉三郎、勘九郎らが出演した。多少の曲折はあったものの初春の行事として定着し、二〇一一年まで続いている。
八五年六月に四国の琴平町にある国の重要文化財である金丸座で歌舞伎を上演する〈こんぴら歌舞伎大芝居〉が行われた。江戸末期に建設されたこの芝居小屋を見学した吉右衛門、藤十郎、勘九郎らが、テレビでこの小屋で芝居をしたいと言い出したことから実現した公演で、文化庁の特別許可を得て三日間公演したところ大変な評判を呼んだ。地元も俳優も継続を望み、以後原則的に四月に行われることになり、公演日数も次第に延び、現在では二〇日程度になっている。観客は全国から詰めかけ、京都の顔見世並みの年中行事になった。これが刺激になって八九年に出雲大社と提携した出雲歌舞伎が誕生、愛媛の内子座、山鹿の八千代座、秋田の康楽館など古い芝居小屋を使った歌舞伎公演、また屋島、宮島など名所でのイベント歌舞伎が九〇年代にかけて次々に誕生した。
大都市では八二年四月に新橋演舞場が高層ビルの中の劇場として新築開場した。四月は歌右衛門、勘三郎以下各世代の人気俳優が出演した。その後は花形歌舞伎、また歌舞伎俳優が新派、新劇、大衆劇の女優と共演する公演の場として使われ、歌舞伎座とは違った特色を持っている。
同じ八二年一〇月に吉祥寺に前進座劇場が開場した。同座の敷地に建設した客席五〇〇の劇場で、開場公演には《寿矢の根三番叟》《鳴神》などを上演した。その直前の九月に創立メンバーで劇団のリーダーだった三世中村翫右衛門が死去したが、この劇場は次代の俳優たちの歌舞伎修業の場として活用され、同座の歌舞伎公演数の増加につながっている。
八四年に大阪に国立文楽劇場が開場した。文楽の大阪での本拠として建設されたものだが、上方歌舞伎上演の場としても使われ、八六年に扇雀(現四世坂田藤十郎)が《石切梶原》《雁のたより》を上演したのを皮切りに上方歌舞伎や花形公演、また九〇年から始まった上方歌舞伎会(関西系の脇役の勉強会)の場になっている。
新旧の世代交替が進み、若い観客が増加する中で、いくつかの問題が表面化してきた。一つはスター級の層は厚くなったが、それを取り巻く脇役、音楽陣、さらに床山、小道具など裏方の人材が不足してきたことである。二つ目は若い観客は美しくて有名で、わかりやすく時間の短い演目を歓迎するため、同じような演目が繰り返して上演されるようになったことである。《勧進帳》《白浪五人男》《寺子屋》などが繰り返して上演される一方、新作はもとより長丁場の義太夫狂言やなじみの薄い狂言、新作は上演されにくくなった。
こうした情勢に対して、俳優や研究者たちからいくつかの反応が生まれた。八二年に扇雀が二〇年間にわたって近松門左衛門の作品を歌舞伎として上演していく〈近松座〉を作り五月に《心中天網島》を国立小劇場で上演した。八三年には団十郎(上演時海老蔵)が〈成田山勧進歌舞伎〉と題して《那智滝祈誓文覚》を復活上演した。八九年には宗十郎が〈宗十郎古典歌舞伎復活の会〉を作り、八月に《うわばみお由》を上演した。同年勘九郎(現勘三郎)も〈勘九郎の会〉を発足させ、新作や古典の勉強会を始めた。八二年には初世中村歌江を中心としたベテラン脇役たちの〈葉月会〉が誕生、これも毎年珍しい狂言の発掘上演を続けている。
猿之助は八六年二、三月に新橋演舞場でスーパー歌舞伎《ヤマトタケル》を初演した。スーパー歌舞伎とはスケールの大きな新作を、歌舞伎の技法を使いながら最新の美術、音響、照明、舞台機構を駆使して上演する新しい歌舞伎の意味である。《ヤマトタケル》は梅原猛の書き下ろし戯曲をもとに猿之助が台本を作り、演出した舞台であった。これが大ヒットし、五月名古屋の中日劇場、六月京都の南座で上演、一〇、一一月には再び新橋演舞場で上演されることになった。このスーパー歌舞伎は二〇〇八年までに一〇作品作られている。これらの舞台で、猿之助は一門の若手や国立劇場養成の研修生出身者たちを積極的に抜擢、八九年一月に一門の若手俳優の劇団〈二一世紀歌舞伎組〉を発足させた。
一方、八五年に日本演劇学会で〈歌舞伎の現状を批判する〉というシンポジウムが開かれ、それをもとに八七年に鳥越文蔵、服部幸雄、今尾哲也、渡辺保らの学者、研究者が中心になって歌舞伎学会が発足した。歌舞伎の現状を憂い、新しい視点に立って歌舞伎の研究と批評を続けていくことを目的にしており、専門の学者だけでなく歌舞伎俳優や一般の歌舞伎ファンも会員に加えた点に新しさと特色があった。
八八年、歌舞伎座は開場百年を記念して八月のSKD公演を除く一一ヵ月間古典を中心に歌舞伎を上演した。一月は《勧進帳》《助六》、二月は《菅原伝授手習鑑》、三、四月は役替りで共に《仮名手本忠臣蔵》の通し上演、五月は《妹背山婦女庭訓》《白浪五人男》、七月は《義経千本桜》の通しといった具合で、年間を有名狂言で埋めた。この話題性が観客動員につながり大入りを記録した。
一方、八七年三月に初世尾上辰之助(三世尾上松緑を追贈)、八八年四月に一七世中村勘三郎、八九年六月に二世尾上松緑が亡くなった。また、長年にわたって雑誌《演劇界》を主宰した利倉幸一が八五年一〇月に、戦後いわゆる武智歌舞伎で関西の若手俳優を育て、またさまざまな分野で演出家、評論家として活躍してきた武智鉄二が八八年七月、長唄の杵屋栄蔵が八八年六月に死去した。
八九年に元号が昭和から平成に改まった。歌舞伎界も世代交替が一挙に進み、四世中村雀右衛門を筆頭に、第二世代と呼ばれた七世中村芝翫、扇雀(現坂田藤十郎)、富十郎らが歌舞伎界を代表する俳優になった。また松緑、辰之助の死で菊五郎は立役に比重がかかることになり、女形として時蔵が頭角を現してきた。
九〇年に入っても日本の好景気は続き、世間は消費景気に沸きたった。歌舞伎座は三一年ぶりに全月を歌舞伎公演で通した。七月を境に爆発的な人気となり、八月の若手の納涼歌舞伎は若い観客で溢れ、勘九郎(現勘三郎)、八十助(現三津五郎)、児太郎(現福助)、三世中村橋之助らが興行の第一線に躍り出ることになった。一〇月の昼の部は猿之助、夜の部は孝玉の公演だったが、二日間で前売りが完売した。
五月に六世尾上松助が誕生、一一月の歌舞伎座で三世中村鴈治郎襲名(現坂田藤十郎)公演が行われた。一〇月に七世市川門之助が急死したが、一二月に小米が八世門之助を襲名した。一〇月に前進座の創立メンバーで女形の五世河原崎国太郎、一二月に歌舞伎振付師の藤間勘祖が死去した。
九一年前半も歌舞伎の好景気は続いた。後にバブル景気と呼ばれる実体の伴わない景気はすでに破綻していたが、歌舞伎には及ばなかった。第二世代、第三世代の俳優が勘三郎、松緑らの当り役を競争のように演じて力をつけていった。
開場二五周年を迎えた国立劇場は九月文楽、一一、一二月は歌舞伎で《義経千本桜》の通し上演を行った。かつて松緑が演じた知盛を団十郎、権太を菊五郎、忠信は富十郎(一一月),菊五郎(一二月)が演じた。
関西では一、二月中座の鴈治郎襲名披露公演に続き、七月の花形歌舞伎、九月の新歌舞伎座の猿之助公演があり、一一、一二月は新装開場した京都南座で恒例の顔見世が行われた。年間六公演は近来の記録となった。五月に二世尾上辰之助が誕生、富十郎が〈矢車会〉を復活した。
五月に三世実川延若、六月に五世片岡市蔵、一〇月に世話物作家として活躍した劇作家の宇野信夫が死去した。
九二年に入ってバブル経済は完全に崩壊するのだが、歌舞伎界は好調を維持した。歌舞伎座は毎月大入りを続け、二、三月は河竹黙阿弥没後百年公演、四月には四世中村梅玉、九世中村福助の襲名公演が行われ、八月は勘九郎、八十助らの若手が《義経千本桜》の通し上演に挑んだ。一二月は猿之助、玉三郎が一五年ぶりに顔を合わせ、前売りには徹夜組を含めて一〇〇〇人の観客が並んだ。六月三越歌舞伎が復活、若手公演を再開した。
鴈治郎は二月に国立文楽劇場で《仮名手本忠臣蔵》の七役早替りを演じたほか、〈近松座〉十周年。富十郎、宗十郎、団十郎らが自主公演を行った。一方、人気の孝夫(現仁左衛門)が顔見世の直後病気で倒れ一年間の休演をすることになった。
九三年には歌舞伎ブームは下火に向かうのだが、逆に年間の歌舞伎公演数は九二年の四五を大きく上回り五一を数えた。三月に明治座がビルの中の劇場として新築開場、三、四月に歌舞伎を上演、また南座の歌舞伎公演が増加したことなどによるが、歌舞伎以外に一ヵ月公演に堪えるスターがいないことにも理由があった。
この時点で歌舞伎俳優の総数は二五〇余人。過労は目に見えていた。歌舞伎俳優たちが所属している日本俳優協会は松竹に興行スケジュールの見直しを申し入れたが、抜本的な対策は示されないまま終わった。
俳優たちはフル回転し、雀右衛門、鴈治郎(現藤十郎)、富十郎らの活躍が光り、菊五郎が《鼠小僧》《野晒悟助》など珍しい狂言を演じた。八月の歌舞伎座が三部制公演を復活、勘九郎(現勘三郎)、八十助(現三津五郎)ら花形歌舞伎の場として定着することになった。八十助が新しい役柄に挑戦、勘九郎は休みなしの一年になった。猿之助一門の初世市川右近が〈右近の会〉を始め、染五郎、初世片岡孝太郎、二世尾上辰之助(現四世松緑)、二世市川亀治郎らの若い世代が台頭してきた。一月に演劇評論家の戸板康二、五月に歌舞伎義太夫の竹本米太夫、一一月に長唄の二世芳村五郎治、一二月に片岡我童(一四世片岡仁左衛門を追贈)が死去した。
九四年三月一三世仁左衛門が九〇歳で亡くなった。四一年間連続出演した九三年の京都の顔見世が最後の舞台だった。歌右衛門も体調が優れず、一月の歌舞伎座を途中で休演、ついにこの年は舞台に出なかった。梅幸も同様だったが一〇月に再起して国立劇場で《合邦》の玉手御前を演じ、一一月には歌舞伎座で《直侍》の三千歳を演じたが途中で休演、これが最後の舞台になり九五年三月に亡くなった。こうした状況で菊五郎、団十郎らの世代が座頭として重みを持つことになり、時蔵、福助らが進境を示した。勘九郎が東京渋谷の現代劇劇場であるシアターコクーンで、コクーン歌舞伎《四谷怪談》を上演した。客席の一部を平土間にし劇場全体を祭りの空間に仕立て、観客と一体になった歌舞伎を創造する試みで、橋之助、染五郎らが共演、若者たちで満員になった。コクーン歌舞伎は以後定着した。
九五年は一月一七日に阪神大震災、三月に地下鉄サリン事件が起こり、景気の低迷、政治の混乱も加わって騒然とした一年になった。これらの事件は社会的にも経済的にも大きな影響を与えた。歌舞伎では上昇気流に乗っていた関西地方の公演が大きな痛手を被ることになった。
この年松竹は創業百年を迎え、歌舞伎座で一月に江戸歌舞伎の名作集、二月に《仮名手本忠臣蔵》、三月に《菅原伝授手習鑑》の通し、四月に《妹背山婦女庭訓》の半通し、五月に《義経千本桜》の通し上演を行い、さらに五月は松緑、七月は猿翁、段四郎、九月は団十郎の追善公演をした。また一月には中座で五世中村翫雀、三世中村扇雀襲名公演を行った。これら記念公演の主役は、猿之助、幸四郎、吉右衛門、団十郎、菊五郎らの世代であった。歌右衛門は四月に《孤城落月》の淀君、一一月に《建礼門院》を演じ、門院では後白河法皇役の八八歳になる島田正吾と共演、二人の滋味の溢れた演技が評判になった。雀右衛門、芝翫らが風格を見せ、鴈治郎(現藤十郎)は《曾根崎心中》のお初の一〇〇〇回上演を達成、富十郎はさまざまな役柄を精力的に演じた。
国立劇場が《因果小僧》《法懸松成田利剣》《平家女護島》などを復活上演し、地方の歌舞伎公演が活発に行われたのもこの年の特色である。
日本俳優協会は脇役を対象にした日本俳優協会賞を制定した。三月に照明家の小川昇が死去した。
九六年も社会の低迷は続いたが、歌舞伎界は安定した歩みを続けた。
国立劇場は開場三〇周年を迎え、一〇月から九七年一月まで記念公演を行った。一〇月は猿之助一門を中心にした一座で鶴屋南北の顔見世狂言《四天王楓江戸粧》を復活、脇狂言、序開きといった顔見世狂言の形式を踏みながら昼夜二部制で公演した。一一、一二月は《妹背山婦女庭訓》の通し上演で《吉野川》で鴈治郎、幸四郎が文楽に近い演出を見せ、雀右衛門、菊五郎らも好演した。九八年一月は団十郎、玉三郎らの《壇浦兜軍記》の通しで、玉三郎の阿古屋が評判になり、いずれの月も大入りになった。
歌舞伎座四月の中村会に歌右衛門が《井伊大老》のお静の方で久しぶりに出演し、秋に勲一等瑞宝章を受章した。しかし以後体調が優れず九九年末まで舞台に復帰する機会はなかった。五月の団菊祭で五世尾上菊之助が誕生、平成の三之助が揃い、〈染五郎の会〉が始まった。
歌舞伎に多くの新作を書いた北条秀司が五月に死去した。六月には舞台美術の釘町久磨次、八月に前進座の中心俳優の嵐芳三郎、一〇月に照明の相馬清恒が亡くなった。
九七年から九八年にかけては金融機関が相次いで破綻し、不況は深刻化し社会不安が募った。歌舞伎も興行面で大きな影響を受けたが、それを追善、顔合せ、人気狂言の上演といった話題性で補い、他の演劇公演に比べると安定した成績をあげた。
九七年二月に大阪道頓堀に松竹座が新築開場した。旧松竹座を外観だけ残して取り壊し、新築した劇場で客席数は一〇三七、歌舞伎上演には最も適した規模の劇場である。二月二六日の開場記念式典には歌舞伎の幹部俳優全員が勢揃いした。三月は羽左衛門、芝翫、鴈治郎(現藤十郎)、富十郎、孝夫(現仁左衛門)、吉右衛門、勘九郎(現勘三郎)、四月は羽左衛門、鴈治郎、団十郎、菊五郎、孝夫(現仁左衛門)、玉三郎らによる大歌舞伎を上演、五月は勘九郎、八十助(現三津五郎)、福助ら若手の三部制公演を行った。その後も七月に歌舞伎、九、一〇月にスーパー歌舞伎《カグヤ》を上演、他の月も大規模な公演を続け、松竹演劇の大阪の本拠になった。その結果中座は貸劇場になったが、八月に二世片岡秀太郎が上方の古狂言を復活する〈関西歌舞伎中之芝居〉を旗揚げし、松竹座で人材養成のための上方歌舞伎塾が開設された。
歌舞伎座では毎月顔合せ公演が行われ、《忠臣蔵九段目》《新薄雪物語》《加賀見山》といった大物が新配役で上演され、とくに玉三郎が歌右衛門の当り役を次々に演じ際立った活躍を見せた。
一月に清元志寿太夫の百寿を祝う《青海波》が上演され、羽左衛門以下幹部が総出演した。三月に歌舞伎囃子方の田中伝左衛門が死去した。
九八年は一五世片岡仁左衛門襲名で明け暮れた。襲名公演は一、二月歌舞伎座、四、五月松竹座、一〇月御園座、一二月南座で行われたがいずれも満員になり、大不況の中にあって興行面で牽引車の役割を果たした。二月に三世河原崎権十郎、四月に学者で演出家の郡司正勝、九月にプロデューサーで松竹副社長の茂木千佳史が亡くなった。
九九年五月に福岡市の博多座が開場した。市が劇場を建設、松竹、東宝など主要興行会社が合同で作った株式会社が経営する官民協力の新しい形の劇場である。最新の機構を備えた客席数一四九〇の大劇場で、六月の柿落し公演は大歌舞伎で、以後毎年二回程度の歌舞伎公演を上演している。この年、一月に清元志寿太夫、四月に九世坂東三津五郎が死去。
歌舞伎スターが他の分野に進出して新しい仕事をしたのもこの時代の特色である。
幸四郎は八八年にアメリカで現代劇《世阿弥》を上演、九〇年にはイギリスでミュージカル《王様と私》に主演、九六年に《マクベス》を演じてシェークスピアの四大悲劇を完演、九七年にシアターナインスという現代劇上演のための会を作った。猿之助は八四年にパリで《コックドール》、九二年にミュンヘンで《影のない女》と二つのオペラを演出、九一年には世界陸上選手権東京大会の演出もしている。
玉三郎は八四年にメトロポリタン歌劇場百周年記念公演に世界の名高いアーティストと並んで出演したのをはじめ、八八年にはアメリカの音楽家と共演、ベジャールのバレエに出演、八九年にはアンジェイ・ワイダ演出《ナスターシャ》に出演、そのほか映画監督、演出家としても活躍した。吉右衛門は八九年から九七年まで連続テレビ番組《鬼平犯科帳》に主演、団十郎、橋之助、勘九郎(現勘三郎)はNHK大河ドラマの主人公を演じている。歌舞伎俳優の演技、演出力と知名度がこうした現象を生んだのである。
また八〇年代に入って歌舞伎の海外公演が急速に増加した。八一年から八四年までは毎年一回だったが八五年からは二回に増え、八八、九〇年は三回になった。その後、国内の公演が増えたためやや数は減ったが九七年には再び四回行われた。外国からの招請が多いためで、歌舞伎が世界の演劇として高い評価を受けていることを示している。