二〇〇〇年から一〇年は世界が騒然とした時代であった。〇一年にアメリカで同時多発テロが起こり、その報復にアメリカはアフガンに派兵、〇三年にはイラク戦争が始まった。二つの戦争が泥沼化する一方で、〇八年には不動産融資のこげつきが原因でアメリカ経済が混乱、その余波で世界同時不況になり、数々の大企業が倒産した。日本も、政治、経済が低迷し、首相が次々に交替した末、〇九年には自民党内閣が退陣して民主党の鳩山内閣が誕生した。しかし、これも一年余で退陣した。
こうした不安で先行きの見えぬ社会情勢の中で歌舞伎界だけは好況を保ちながら推移した。この間の大きな現象を挙げると、トップ俳優の世代交代が完結し、同時に新しい世代の俳優が台頭したこと、それに伴い多くの大名跡の襲名公演が行われたこと、歌舞伎公演の形が多様化し、古狂言の復活や新しい試みが活発に行われたこと、歌舞伎の観客層が広がり、歌舞伎が世界無形文化遺産に選ばれたこと、歌舞伎の本拠だった歌舞伎座の建て直しが始まったことであろう。
第二次大戦以後の歌舞伎をきえて来た俳優が相次いで亡くなった。二〇〇一年に中村歌右衛門、市村羽左衛門、〇九年に中村又五郎が死去し、大正生れの大幹部俳優は中村雀右衛門一人になった。雀右衛門も〇八年に八八歳で女五右衛門を演じたものの、〇九年以降は高齢のため本公演は休んでいる。代わって歌舞伎を支えているのは昭和生れの俳優たちで、中村芝翫、坂田藤十郎、中村富十郎を筆頭に、働き盛りの尾上菊五郎、松本幸四郎、中村吉右衛門、市川団十郎、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村梅玉、中村勘三郎らである。その世代の中で精力的に活動してきた市川猿之助が〇四年に病気で倒れて舞台出演が困難になったこと、沢村宗十郎が〇一年に死去したことが残念である。歌舞伎を興行面で支えてきた永山武臣松竹会長、三田政吉明治座会長がともに〇六年に死去した。
大名跡の襲名が次々に行われ、歌舞伎興行を盛り上げた。二〇〇一年の一〇世坂東三津五郎に始まり、〇二年に二世中村魁春、四世尾上松緑、〇三年に四世河原崎権十郎、六世片岡市蔵、〇四年に一一世市川海老蔵、〇五年に一八世中村勘三郎、〇五年に四世坂田藤十郎、〇七年に二世中村錦之助の襲名公演が行われ、興行面で歌舞伎を盛り上げた。これと並行して、新世代の俳優が台頭してきた。海老蔵を筆頭に、市川染五郎、尾上菊之助、松緑、片岡愛之助、市川亀治郎、中村獅童、中村勘太郎、中村七之助ら大幹部の息子たちが花形として人気を高めてきた。
歌舞伎は大都市の大劇場で上演するという形態が崩れ、歌舞伎公演が多様化した。中村勘三郎は二〇〇〇年に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場平成中村座を建設し、初公演に《法界坊》を上演した。以後仮設劇場の強みを活かして日本各地をはじめ外国にも移設して歌舞伎公演を行っている。このほか全国に残っている古い劇場を使った公演、新しい劇場での公演など、歌舞伎公演が多様になった。同時に現代劇作家の野田秀樹が《野田版 研辰の討たれ》(〇〇年)、《野田版 鼠小僧》(〇三年)、三谷幸喜が《決闘高田馬場》(〇六年)、宮藤官九郎が《大江戸りびんぐでっど》(〇九年)などの新作を書き、串田和美が平成中村座公演の演出を担当、蜷川幸雄がシェークスピアの《十二夜》を歌舞伎として演出するなど、新しい試みが続けられた。〇四年に年間の歌舞伎公演数は四二回になり、以後も毎年同程度の公演数を記録している。
明治以来歌舞伎の殿堂だった歌舞伎座が,老朽化のため建て直すことになり、一〇年四月の公演で閉座した。〇九年一月から大一座による〈さよなら歌舞伎座〉と銘打った公演を続けたが、次第に盛り上がり、舞台も充実し、最後は社会的な話題になった。国立劇場は〇一年に開場三五周年、〇六年に四〇周年の記念の年を迎え、〇一年は団十郎が知盛、忠信、権太の三役を演じる《義経千本桜》など、〇六年は三ヵ月にわたる《元禄忠臣蔵》の通しなどを上演、復活狂言や通し狂言を軸に特色を出した。こうしたさまざまな話題が集客につながり、不況が続き演劇界も混迷するなかで、歌舞伎だけは好況という事態を生み出した。
新しい観客が増加した。一つは花形俳優の台頭に伴い若い観客が増えたこと、もう一つは団塊世代が定年を迎えたこと。団塊の世代は比較的高学歴の人が多く、文化に対しての関心も高い。時間の余裕ができて古典演劇の新しい観客になった。先行きの不透明な時代に評価の確定した文化や演劇に人びとの関心が強まったのである。〇五年に歌舞伎はユネスコの世界無形文化遺産に選ばれた。