歌舞伎は、その出発点においては市井のかぶき者やかぶき女の風俗を模倣し、さらにそれを洗練したり誇張したりして舞台にのせた。髪形、衣裳の形・色・模様、帯の形や結び方などがそれである。しかし、それらは直ちに市民一般の風俗の方へ投げ返され、流行をもたらすこととなった。歌舞伎風俗の一般への影響は、服飾上のあらゆる分野に及んだ。
髪形についてみると、男性の髪形として〈伝九郎
帯の結び方では〈吉弥結〉〈路考結〉など、小物では〈岩井櫛〉がとくに有名である。贔屓役者の定紋や替紋を櫛、簪、手鏡などに付けることが宝暦以後盛んになり、明和・安永・天明期には異常なまでの大流行を示した。
その種類が多様で、広範囲にわたって流行し、かつ、次から次へと新しいものが生み出されながら、それぞれが長期間にわたってもてはやされたのは、衣裳の色と模様であった。中期における人気若女方二世瀬川菊之丞の〈路考茶〉、立役の初世尾上菊五郎の〈梅幸茶〉は、江戸中期の
衣裳の模様は、もっとも多様な変化を示した流行風俗である。それらの中には、(1)役者が舞台である役を演じた際にくふうしたデザイン、(2)とくに役とは関係なく、役者の〈家の模様〉として考案したもの、(3)舞台で使い始めたデザインが、そのまま〈家の模様〉となったもの、以上の三種類のものが含まれている。早く元禄五(1692)年刊の《女重宝記》に、「時のはやりもやうは大かた歌舞妓しばいより出づるなれば、これをこのみ着給ふも
これらの模様のほとんどは、染模様である。江戸中期以前の流行では、〈小太夫鹿子〉〈千弥染〉〈市松染〉〈亀蔵小紋〉〈小六染〉〈菊寿染〉〈仲蔵縞〉〈伝九郎染〉などがとくに有名である。江戸後期から幕末にかけての時代は、個性の強烈な名優が輩出したことと、歌舞伎そのものが庶民大衆に広く浸透し、芝居趣味・役者好みの傾向が広い範囲の人たちの間に定着したことが合致し、役者好みのデザインが次々と創出され、もてはやされた。〈半四郎鹿子〉〈万字つなぎ〉〈芝翫縞〉〈璃寛縞〉〈三つ大縞〉〈高麗屋縞〉〈三升つなぎ〉〈鎌わぬ〉〈菊五郎格子〉〈観世水〉〈六弥太格子〉〈花かつみ〉などが代表的なものである。
歌舞伎に源を持つ流行風俗の歴史をたどると、そこには江戸歌舞伎、ひいては江戸文化の変遷の姿を反映しているのを確かめることができる。