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ほめる編 第9回

涙をほめる

オリンピックが始まりました。選手、コーチ、選手の家族など、多くの関係者が喜びや悔しさのために涙を流しているようです。そこで今回は涙を肯定的に表現したいときに向く言葉を紹介します。

  • 1(うつく)しい

    涙をこのように形容する場合は主に人間性の美しさが涙に表れていると周りの人が感じる場合です。「美しい涙」はよくいいますが、「醜い涙」「汚い涙」はあまりいいません。それは「汚いゴミ」というものの「美しいゴミ」とはいわないのと似ています。

    名人伝〔1942〕〈中島敦〉「二人は互ひに駈寄ると、野原の真中に相抱いて、暫し美しい師弟愛の涙にかきくれた」

    この場合の「美しい」は「涙」ではなく「師弟愛」にかかるとも考えられます。

  • 2(あつ)(なみだ)

    「日国」では「熱い」の子見出しとして「熱い涙」が立項されています。感動の涙をいうことが多く、スポーツ界では勝った選手がよくこれを流しています。

    末枯〔1917〕〈久保田万太郎〉「せん枝は掻巻(かいまき)に顔を埋めた。熱い泪がとめどなく流れた」

    この用例のように「熱い涙」は「とめどなく流れる」とセットになっていることが多いものです。「とめどなく」は「止め処なく」と書くこともあり、際限がないことを意味しますが、どの程度泣けば「とめどなく」になるのかについての基準はありません。

  • 3熱涙(ねつるい)

    「熱い涙」に同じ。スポーツ関係者は「熱戦」「熱闘」など、「熱」の熟語を好むようですから、これも今後広く使われていくのではないでしょうか。

    経国美談〔1883~84〕〈矢野龍溪〉前・三「豆の如き熱涙を二滴三滴其の衣上にぞ落しける」

    用例は、軍人が友人の死を知らせる手紙を読み泣いている場面。ここでは涙を「豆」にたとえていますが、ふつうは光るもの、透明なものにたとえます(涙の比喩については別に紹介します)。

  • 4感涙(かんるい)(きも)(めい)

    「感涙」は感謝の涙、感激の涙をいいます。誰かに助けられ、感謝ゆえに泣いている場合は、「熱涙」よりも「感涙」が向きます。また、「感涙を流す」でも感動は伝わりますが、「肝に銘ず」のほうが一生モノの感動であることを表現できます。しょっちゅう「感動した!」、「泣けた!」などと言っている人は、ときにはこのような言葉で変化をつけたほうがよいでしょう

    御伽草子・酒呑童子〔室町〕「さては三社の御神のこれまで現じましますかと、かんるいきもにめいじつつ、かたじけなしとも中々にことばにもいひがたし」

    酒呑童子を退治しに行く源頼光らの前に、三人の老人(八幡・住吉・熊野の三神の化身)が現れ、鬼の力を奪う酒などを与える場面から。現代語にすると、「それでは三社の神々がここまで現れてくださったのかと深い感動の涙を流し、ありがたいともなんとも言葉にもできないほどだ」。

  • 5感泣(かんきゅう)

    「感涙」と同じ泣きかたに用います。近年は本を読んで泣けたときなど、感謝のない感動で泣いたときにもこれを用います。

    愛弟通信〔1894~95〕〈国木田独歩〉大連湾掩留の我艦隊「誰れか大御心に感泣(カンキフ)せざる者あらんや」

    日露戦争~第二次世界大戦期の日本では天皇に感謝して泣く人が現在よりもはるかに多く、また当時のメディアは「感泣」のニュースを伝えることに対して現在と同様に熱心でした。

  • 6(おとこ)()

    原因が悔しさでも喜びでも、泣いているのが男性なら「男泣き」と呼んでさしつかえありません。大事な場面で男性が泣くことに対して日本人は同情的です。その歴史は古く、古典文学をひもとけば随所で泣く男を見つけることができます。恋に泣き、戦いに泣き、将来を案じて泣き……。問題を起こした会社の社長(男)が泣くのも、その伝統に従っているといえるでしょう。

    浮世草子・日本永代蔵〔1688〕二・三「もみぢの錦は着ず共せめて新しき木綿布子なればかへるにと男泣(ヲトコナキ)して」

    零落した男がみっともないかっこうでは実家に帰れないと泣いています。もしこれが「新しき木綿布子なればかへるにと泣きて」だと、この男の無念さは表現し切れないのです。

  • 7()(なみだ)

    激しい悲しみや大きな苦しみのための涙にいいます。泣く人の目元のズーム・アップ映像やドラマチックな音楽に合わせて大仰なコメントをつけたいとき、ジェンダー問題を意識して「男泣き」を避けたいときなどに向きます。「血涙(けつるい)」とも。

    霊異記〔810~824〕中・四二「朝に飢ゑたる子を視、血の涙を流し泣き」

    九人の子どもを持つ貧しい母親が、千手観音像に祈ったおかげで富を得る話からの用例です。

  • 8紅涙(こうるい)

    「血の涙」のことをいう場合と、美人の涙のことをいう場合とがあります。「紅(くれない)の涙」となると「血の涙」もしくは「感涙」になり、美人の涙の意味はなくなるので注意が必要です。

    平家〔13C前〕一一・腰越「勲賞おこなはるべき処に、虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によってむなしく紅涙にしづむ」

    兄の頼朝に嫌われ、面会もできなくなった義経が頼朝のブレーン、大江広元に書いた手紙から。自身の苦しみ、悲しみの深さを「紅涙」で表現しています。

  • 9随喜(ずいき)(なみだ)

    「随喜」は仏教語で、他人の行う善を見てそれに従い喜びを感じること。一般には大いに感謝し喜ぶことにいいます。一般に辞書では「随喜の涙」は「うれし涙」と同じ意味であるとしていますが、実際には「随喜の涙」を用いることができる場面は「うれし涙」ほど広くありません。「随喜の涙」は寺での法話に感動した人々の涙を表現するのにふさわしい言葉ですから、現代においては有名僧侶の法話CDの宣伝、仏教入門書の宣伝などに用いるのがよいでしょう。

    平家〔13C前〕二・一行阿闍梨之沙汰「大衆神明の霊験あらたなる事のたっとさに、みなたな心を合せて随喜の涙をぞもよほしける」

    現代語にすると、「人々は神の霊験が鮮やかであることの尊さに感じ入り、みな掌を合わせて随喜の涙を流した」。このような涙が「随喜の涙」の一般的なものであるがゆえに、雑俳・柳多留‐初〔1765〕「若後家にずいきの泪こぼさせる」などという川柳が成立するわけです。

  • 10(なみだ)(たま)

    涙のしずくを何かにたとえる場合、古くは玉にたとえることがもっとも一般的でした。「涙珠(るいしゅ)」ともいいます。

    古今〔905~914〕哀傷・八四一「ふぢ衣はづるるいとはわび人の涙の玉のをとぞなりける〈壬生忠岑〉」

  • 11水晶(すいしょう)

    「玉」といえばスポーツのボールをイメージしがちな現代人には、「水晶」のほうが涙をイメージしやすいでしょう。「日国」には「涙の水晶」という項目もあります。宝石関係では真珠にたとえることも多いものです。近代以降は、行人〔1912~13〕〈夏目漱石〉兄・三二「女の涙に金剛石(ダイヤ)は殆んどない、大抵は皆ギヤマン細工だと甞て教はった事がある」というように、ダイヤモンドもそこに加わるようになりました。

    浄瑠璃・用明天皇職人鑑〔1705〕道行「夫婦目と目と見合て、さけびあげ咽び入、袖にも膝にもはらはらと落つる涙は水晶の珠数(じゅず)の切れたる如くにて」

    日本人の感覚では一般的な涙の粒の大きさは数珠の玉ぐらいなものらしく、数珠もよく涙の比喩として用いられます。

  • 12(とち)ほどの(なみだ)

    江戸時代、大粒の涙の比喩としてよく用いられたのは橡の実です。やや非現実的なところが、おおげさな表現を好んだ近世人の感覚に合ったのでしょう。ほぼ同じサイズのほおずきが用いられることもありました。

    俳諧・崑山集〔1651〕一一秋「橡程のなみだやこぼすどんぐり目〈由当〉」

    涙の粒の大きさは悲しみや喜びの大きさに比例するかのようにいわれますが、この句では単に目の形状によるものとします。

  • 13千行(せんこう)(なみだ)

    涙の粒の大きさではなく、涙の筋の多さを強調するのがこれ。現代の日本文学では涙の粒の大きさや筋の多さを強調することはあまりさかんではなく、この伝統はマンガやアニメのほうに受け継がれています。川崎のぼるの漫画を例にあげれば、「てんとうむしの歌」では粒の大きさが強調され、「巨人の星」は筋の多さが強調されていました。

    舞姫〔1890〕〈森外〉「エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺(そそ)ぎしは幾度ぞ」

  • 14(うそ)(なみだ)(いで)ぬもの[こぼれぬもの]

    涙は本心より出るもの、本当の気持ちが涙に表れている、という意味の言葉。現代でもこのように考えている日本人は少なくないようです。しかし、涙が出ないほどの悲しみやショックで何も感じられないこともよくあるものです。

2006-02-20 公開