よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.3家
家といっても、物質としての家屋から、派生した抽象的な家、つまり家族や家庭、家柄、家系といったものまで広く表わす。俳句が詠ってきた家で、最も多いのは、家族関係を含む、自身の周辺に取材した日常吟だろうが、変化の乏しい平穏無事の日常をそのまま俳句にしたところで、ああそうですかで終わってしまう「日記俳句」になるのが落ち。そこを脱するには、通念にとらわれない新たな家観の提出ということになるだろう。
さて江戸時代、たとえば与謝蕪村は「春雨や人住ミてけぶり壁を洩る」と詠み、小林一茶は「名月の御覧の通りくづ家哉」「思ふまじ見まじとすれど我家哉」と詠んだ。江戸の俳句に詠まれた家は、その貧しさ、貧相さがことさら目立つが、近代に入ってからはどのように詠まれることになるだろう。
太陽に
屋根屋根はをとこをみなと棲む三日月 屋根を連ねる家並みは、その屋根の下でのそれぞれの男女の営みを思わせる。おりしも三日月である。月の光り輝く部分を「明」、薄く欠けて見える部分を「魄〈はく〉」というが、三日月ではこの魄が最もよく見える。つまり陰陽の陰を強く意識させることも、男女の営みによく響く。また「月の眉」といえば、女性の美しい眉のことである。
木の家のさて木枯らしを聞きませう 木枯しは、まさに木を枯らすように、木の葉を吹き散らすように吹く、晩秋から初冬にかけての北寄りの冷たい風。木でできた家の中でそれを聞くというおかしさをいっているわけだが、「さて」が効果的にその心のゆとりといったものを引出している。窓秋には「石の家ぼろんごつんと冬がきて」という句もある。
家々や菜の花いろの燈をともし 暖かい家庭の団欒を「菜の花いろの燈」で象徴させたところが、平易でかつやわらかく美しい表現を好んだいかにも夕爾らしい。菜の花の種から採る菜種油は、古くから灯油として使われてきたことが直接のヒントになったかもしれない。いずれにしても詩人でありながら、久保田万太郎などの洗練された俳句表現に惹かれて、自らも俳句をはじめた夕爾の代表作である。
父母の亡き裏口開いて枯木山 龍太は昭和37、40年とたてつづけに父と母を失う。その心の空虚感を詠った句である。父・蛇笏は俳句の師でもあったから、その喪失感も大きかったろう。蛇笏が山廬と呼んだ飯田家の裏山が、がらんと戸の開け放たれた裏口から見えているのである。父がよく散歩をしていた裏山はいまはただの荒涼とした枯木山にしか見えない。その作者の空虚感、喪失感が、読むものの胸にまっすぐに迫ってくる。
五月雨や鴨居つかんで外を見る 五月雨に降り込められる毎日。今日も降り続いているのか、どれくらいの降りなのか、鴨居をつかんで背伸びをして外を見てみたのである。ただそれだけのことなのだが、五月雨に降り込められる無聊感が的確に表現されている。鴨居の語源説の一つに防火の呪いのため水辺で生活する鴨の形につくったというものがあるが、自由に空を飛ぶ「鳥」の入ったこの字も句の厚みを増す働きをしている。
土黒く光る生家の雪掘れば 昇子は雪深い長野県生れ。その生家の雪を掘ったところ、黒々とした土が現れたのである。それはいきなり自分の幼少期が立ち現れたかのようでもある。率直な句のつくりが、その新鮮な驚きを過不足なく伝える。昇子は新興俳句を代表する俳誌の一つである「走馬灯」の創刊者の一人で、その運動の推進に功績のあった人。白泉、三鬼、敏雄との交流も密だった。
ぶだう呑む口ひらくときこの家の
人みなが家を持つてふかなしみよ 墓に入るごとく かへりて眠る 家というものは人間存在と切り離せないもので、好き嫌いや肯定否定の対象にはなり得ないはずだが、この歌では嫌悪の対象として家が詠われている。それは日常性の入れ物としての家への啄木の苛立ちである。
2003-07-14 公開