よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.22地名
芭蕉の『奥の細道』は漠然と旅をして書かれた紀行文でないことは、今日では常識になっている。まずそれは陸奥の歌枕を丹念にたどる旅であったことから、俳諧師・松尾芭蕉が日本の文学的伝統に連なる文学者の一人であることを、高らかに宣言した表明文とも読めるのである。歌枕は和歌に多く詠まれてきた地名つまり名所の意だが、古代においてはその土地の信仰と結びついた言葉であり、またそれゆえに歌にも詠まれてきた。しだいにそれは類型的な連想をよぶ言葉として定着していくのだが、いずれにしてもそこには日本人の文学的伝統、歴史、詩的情感などがたっぷりと刻みつけられているのである(俳句では「俳枕」といったりする)。歌枕に限らず、日本の短詩型文学で詠まれてきた地名は、単なるその場所の指標ではないことを忘れてはならない。
住吉にすみなす空は花火かな 「住みなす」はある様子をして住む、住処〈すみか〉にする、住みつくといった意。「住吉」は摂津国(大阪府)の古郡名、住吉大社にも残る古い地名。青畝は「葛城の山懐に寝釈迦かな」「大阪の煙おそろし和布売〈わかめうり〉」など地名を使うのに巧みで、それは青畝俳句に独特の遥かな時間の感覚といったものを感じさせるものになっている。
清水の舞台の上の雪達磨 「清水の舞台」といえば「清水の舞台から飛びおりる」で知られる京都東山区にある清水寺であろう。切り立った崖に設けられた観音堂は、徳川家光によって再建されたもので、懸〈かけ〉造りの広い舞台で有名だ。そこに降った雪で雪達磨がつくられていたのである。さまざまな歴史の舞台にもなってきたそこに、なにも知らぬげにとぼけたようにちょこんとある雪達磨。この雪達磨がなんともおかしいのは、とにもかくにもそこが清水の舞台だからである。
見上げれば吉野は障子破れをり 「多作多捨」や「俳句スポーツ説」で知られる作者らしいけれんみのない作品である。蒼古たる歴史を秘め、有数の観光地でもある吉野。しかし観光シーズン以外はおおむね人は疎らで、ひっそりしている。そんな中を歩いていて、旅館や土産物店の峪に面した裏側の障子戸が、あちこち破れているのを見てつくったと作者は自解している。吉野だから障子が破れているだけで俳句になるのである。
みちのくの伊達の
広島や卵食ふとき口開く ヒロシマと片仮名書きにした方がこの「広島」に近いだろう。昭和21年7月、被爆の余燼がまだ生々しい広島に足を踏み入れた際の作品だからである。広島という地名は毛利輝元が16世紀に城を移して以来のものだが、この俳句に詠われた広島は原爆を抜きには語られない広島である。地名はこのように歴史によって意味を変えていくものでもある。自解には「未だ嗚咽する夜の街。旅人の口は固く結ばれてゐた。うでてつるつるした卵を食ふ時だけ、その大きさだけの口を開けた」と述べている。
砂町の波郷死なすな冬紅葉 この頃、石田波郷は江東区砂町に住んでいたが、戦地で罹患した胸膜炎が再発し、健康状態は悪化の一途をたどっていた。波郷と白泉はともに大正2年生まれの同じ歳で、俳句に対する立場は異にしたが、互いの俳句への思いや意欲は尊重し合っていたようだ。新興俳句運動弾圧事件で検挙された白泉は、波郷の主宰する「鶴」に変名で投句したこともあった。そんな波郷に対する白泉の思いがきわめて率直に吐露されたのが上掲句である。しかし率直ではあるが、平板になっていないのは「砂町」がこの句の奥行をつくっているからである。この頃、波郷も「立春の米こぼれをり葛西橋」という、これまた地名を効果的につかった作品を書いている。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 秩父は兜太の故郷。生まれ故郷への思いがなんのてらいもなく語られていて、気持よく読める。「どれも」が対象との距離感をうまくつくっている。秩父の語感も活きている。曼珠沙華は秋の季語だから、この子たちは夏の日焼けが充分に残っている腹を出して、走っていくのである。
むっつりと上野の桜見てかへる むっつり帰ってきたのだから、機嫌のいいはずはない。おそらく人出の多さにうんざりしたのだろう。そのすべてを「上野」が語っているのである。
品川や駅の別れを知らぬ秋 品川は古来、さまざまな別れの舞台となってきたところである。東海道五十三次の第一の宿駅で江戸最大の宿場町として賑わい、日本最初の営業用鉄道も横浜(現桜木町)と品川の間に敷かれた。この句の具体的な背景は、第二次世界大戦で兵士の多くが品川駅から出征して行ったことと考えられる。また「雨の降る品川駅」という中野重治の詩でも知られるように、大陸から強制連行されてきた人々の多くも品川駅から帰国の途についた。それらの事実はいうまでもなく花鳥諷詠の世界の外にあるのである。
東京へ帰るとわれは冬木原つらぬく路の深き霜踏む 武蔵野辺りの霜深い道を東京に向かって歩いているのだろう。その霜の鳴る音は空穂の心の中での東京との距離感が音をたてているようだ。それでも作者は東京をめざす。背後にさまざまなことを思わせる歌である。
大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ 父と母は寺山修司の重要なモチーフであった。幼い時の父との死別、母との別居という実生活での経験も影響していると思われる。「老母買う」というのは単純な母恋いではない。どちらかといえば姨捨に近いイメージ。その複雑で屈折した思いをさまざまな町の名が加速させていくようだ。
2004-04-26 公開