よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.5金銭
お金は、人が現在の社会で生きていくためには必要不可欠なものだから、それを題材として俳句をつくるということは、社会の中における人間の宿命をどのように捉えるかというところに行きつく。いずれにしてもきわめて現実的な問題なので、俳句の題材にはなりにくいものだが、それに挑戦した俳句がないことはない。
ちなみに俳人とお金の関係ということになると、古来、あまり縁のないものとされてきたわけだが、俳句を経済活動の対象にして成功したのは高浜虚子である。結社家元制というシステムを確立し、世襲が可能なものにした。当然、それは批判の対象にもなってきたわけだが、三代目の主宰者をいただき、ホトトギスの基盤は現在も揺るぎない。
橋涼みこゝにも金の咄かな 涼むために橋に出てみたところが、こんなところでも金銭に関わる話になった。あるいは人々がそんな話をしていたといった句意。涼しい場所での暑苦しい話というのがミソである。古白は正岡子規の遠縁にあたり、俳句を子規に学び、「芭蕉破れて先住の発句秋の風」「小夜時雨溝に湯を抜く匂ひかな」といった斬新な作品で子規を驚かせた。しかし神経を病み、ピストル自殺をはかりわずか24年の生を終えた。
先生の銭かぞへゐる霜夜かな 寅彦は当時、東大理学部の教授だったが、妻を亡くしたばかりで、家庭では残された子供たちを育てる日々を送っていた。社会的には先生と呼ばれる身分でありながら、家に帰れば家計のやりくりを含めてお金を数えなければならない現実があったのである。その落差を自嘲した句である。
ほんの少し家賃下りぬ蜆汁 浅草生れの水巴は、江戸趣味を湛えた繊細で、耽美的な句風で知られるが、掲出句のような市井の日常生活に沈潜した一連の作品も多い。その代表的なものは「ひとすぢの秋風なりし蚊遣香」だが、この句はさらに生活感のあふれた親しみやすさをもっている。
金欲しき青とうがらしとうがらし 「金欲しき」と「青とうがらしとうがらし」を意味でつなごうとしても、無理である。そのこと自体が金銭欲というものの、あるいはお金がなければ生きていけない社会というものの不条理さを示していると解するしかない。それはとうがらしの辛さのように痛烈な真実なのである。辰之助は新興俳句運動で活躍し、山岳俳句というジャンルを切り開いたことで知られている。
土地を売った うつろのなかに とんでいる雀 昭和恐慌の影響で、生糸の輸出が打撃を受け、繭は暴落。また米も暴落し、日本の農業の柱であった「米と繭」が危機的状況に陥っていたところへ、昭和6年には東北地方を中心に凶作となり、農家は疲弊し、土地を手放したり、娘の身売りなどがあいついだ。この句の「土地」もそんな農家が売ってしまった田畑だろう。禅寺洞は碧梧桐の新傾向俳句や新興俳句運動に参加し、戦後は口語、自由律俳句を唱え、多行形式を試みたり、つねに俳句の革新を推進した。
敬老金もらひてひとりどぜう屋に 9月15日の敬老の日に祝い金をもらったのだろう。しかし、どう使ってよいか戸惑う。さしあたり泥鰌屋に来てみたというのだが、泥鰌屋をまず思いついたというのが、なんともはやおかしいし、また説得力もある。泥鰌屋に一人ぽつねんと座っている老人が目に浮かぶようだ。作者は演劇関係の仕事をしていたこともあってか、この辺の人情の機微を捉えるのがうまかった。
金貸してすこし日の経つ桃の花 あの人にお金を貸してからどれだけ経つだろうか。のんきにそう思うのだから、おそらく都合がついたら返してくれればいいよといった返済日などあまり気にしない借金なのだろう。その善意を確信させるのが「桃の花」である。彼はどうしただろうか、かすかな不安がないわけではないが、いや彼を信じようという作者の思いが「桃の花」なのである。
ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて
2003-08-11 公開