よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.23火
俳句に登場する火としては、「迎え火」「門火」「流灯」「火祭」「年の火」といった民俗的な行事に関したもの、「花火」「蛍火」「狐火」など、それに冬の季語である「火事」や「火の番」というのもあって、簡単には整理できない。なにしろ火の獲得は、人類が人類としての歩みを始めるきっかけともなった重要なものだから、その存在は人間の生活、さらには心理の種々相にわたるからである。高柳重信の「火を盗みきて/父は刑死/火を姙〈みごも〉りし/母は身を焚〈や〉き」という多行俳句作品は、火の原初性を直接的に描き出している。ギリシャのプロメテウス神話や日本の火の神カグツチの神の話に描かれる火の凶暴性は、原初の火というものの両面性を物語っている。人間に火を与えたためにプロメテウスはゼウスに罰せられ、カグツチの神はその誕生にあたって、母神を焼き殺すのである。火は人間の生活に有用不可欠なものであると同時に、それを無に帰す火災をも起こすのである。そういった火の原初性は現代の俳句にどのように現れているだろうか。
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 発表されたのは戦後だが、つくられたのは昭和16年9月。その時代背景が重要である。この年の末に日本は太平洋戦争に突入し、やがて全国の主要都市は焦土と化すのである。その戦火に焼き払われた廃墟の風景に、この孤影の深い鬼はいかにもふさわしい。この鬼は赤黄男自身を仮託したものとも考えられるが、いずれにしても予見性に満ち満ちた句である。
赤き火事哄笑せしが今日黒し 昨夜、哄笑するように真っ赤な舌のような炎を吹き上げていた火事が、今日、行ってみるとただの黒々とした焼け跡だったという句意。そのなんだかはぐらかされたようなしらけた気分を詠っているのだが、小林恭二がいっているように、「哄笑」の主体は火事ではなく、三鬼本人と解することもできそうだ。そのほうが三鬼らしいというのはわかるが、しかしこれは、やはり火事そのものが哄笑していると理解すべきだろう。
炭火の世美しくまた寒かりし 暖をとる手段が炭が主体だった時代を回顧しているのである。炭火はまことに美しく、安堵感を与えるような暖かさをもたらしてくれた。その時代の記憶も炭火のような美しさをまとって思い出される。しかし炭火にあたっている側にひきかえ、背中や家の中は寒かったように、昔だからといっていいことばかりだったわけではない。寒々とした側面だって思い出される。「また寒かりし」という端的な物言いに込められているものは案外に重いのである。
寒暁を起きて一家の火をつくる スイッチ一つで火のつく現代では実感は薄れたが、竈〈かまど〉などの火を起こすことは日々の暮らしに欠かせない営みだった。その担い手の多くは家族でいちばん早く床を出る母親であった。この母親によってつくられた火は、生活に直結する重要なものであるとともに、生活そのものを象徴するもので、「火の消えたような」といえば生活の賑わいを失ったような寂しい様子をいう。フランス語のfoyerは炉、暖炉、竈、あるいは家、家族、家庭、さらには中心、焦点、温床などと訳される語だが、火というものが一家の中心にあったことは洋を問わないようだ。
山眠り火種のごとく妻が居り 作者はハンセン病で全盲になった人。見えぬ妻は彼にとって、暖かくて頼りがいのある火種のような存在なのである。あるいはいつ燃え上がるかもしれない恐い存在だったかもしれない。三橋敏雄の「朝ぐもり昔は家に火種ひとつ」という句が思い出される。
一人は火 二人は炎 その余は 淡し 字形が発想のもとにあるのは一目、明瞭だが、純度の高い硬質な抒情性が貫かれ、比類なく美しい俳句世界を実現している。作者は筋萎縮症で7年間の闘病生活の末、55歳で亡くなった。不治の病と妻とともに戦い、最後まで俳句に執念を燃やす様はテレビドラマ化もされた。
火を出して減る石ころも梅の頃 火打石と梅を取り合わせただけの句。鉱物と植物、固いものと柔らかいもの、ほとんど色のないものとあるもの、ともに自然物ではあっても実用の具であるものと鑑賞の対象であるもの、さまざまな面で対照的な二つだが、それでいながら絶妙なバランスでのつながりも感じる。そこに老練な俳句的技術がうかがえる。
どんど火の傾く方に夜の山 「どんど火」というのは、1月15日前後の小正月に正月の間、飾っていた門松や注連縄、書初めなどを焚く行事で、左義長〈さぎちょう〉(もともと毬杖〈ぎっちょう〉という祝い棒を三本立てた三毬杖からきた名称)とも呼ばれる。どんど火の中心には、近くの山から伐ってきた木を柱として据える地方が多いが、そこには年神様や正月の間に家に戻っていた祖先の霊が、その煙に乗ってもといた山に帰っていくという考え方がある。この句のどんど火はそのことを知っているかのように、夜の山に傾くのである。
火はわが胸中にあり寒椿 生への本能(エロス)と死への本能(タナトス)という二つの側面をもっている火が、おのが胸中に存在するというのである。生と死、生産と破壊という相対立するはずのものを同時的にもっているということを宣言するは、他者を排除した一種のナルシズム、あるいは英雄待望論といってもいいだろう。
火のなかのものよく見えてちちろ虫 ちちろ虫は蟋蟀〈こおろぎ〉のこと。虫の音が秋の深まりをしみじみ感じさせるある日、焚き火をしていたら、その火の中のものがよく見えたというのである。ごくさりげない日常の出来事を詠んだ句のようにみえる。本人も「火というと情念と思われがちだが、私の火の句は情念ではない。甘美でもない。プリミティブで生活に密着している」(「火を詠う」)と述べている。しかし火の中のもの、つまり燃えて消滅しつつあるものがよく見えるという心理あるいは生理状態は、一種の幻覚症状に近いのではないか。あの世とこの世の境にいるような危うい境地に読者を誘っているようでもある。
火柱の中にわたしの駅がある 一転してこちらの句は作者の情念そのもの。駅というものは「ここ」ではない「どこか」へ旅立つためのものだから、「わたし」はさ迷っていた過去を振り切って、「どこか」へ旅立とうと決意しているのである。その決意の激しさを示すのが「火柱」なのである。
呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる まるで息をしているかのように微妙に色を変化させながら燃えている炎。作者の眼はその色のみにくぎづけになっている。火というもののあらゆる属性が剥ぎ取られ、ここでの火は、色を発する光源としてしか存在していない。ところがそこに水をさすように、「火よ」と教えてくれる「貴方」(火に水をさしたら消えてしまうのに)。それは個的世界への現実の介入といってもいい。作者にとっての「貴方」もそのような存在なのかもしれない。
2004-05-17 公開