よもやま句歌栞草

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。

中村 裕(俳人・編集者)

Vol.8身体

大雑把な言い方だが、西欧の伝統的な二元論では、物と心、物質と精神をはっきり分け、身体は生命のない物体に属すと考えられてきた。それに対して東洋では、身体は物と心の中間にあって、両方を結びつけるものとされてきた。ここにあげた身体を題材にした俳句からは、ある程度、その辺の機微をうかがうことはできる。近年は二元論に立った近代合理主義の批判、反省から東洋的身体観の見直しの動きが顕著だが、それに応えるだけの作品を現代の俳句は生み出しているのだろうか。

水洟や鼻の先だけ暮れ残る芥川龍之介 小説『鼻』は龍之介の出世作。それ以来、鼻にたくされた自尊心の問題は彼の生涯のテーマであった。この句は自死の直前に、「自嘲」と前書きされて、主治医に渡されたという。実際につくられたのはその4、5年前と考えられているが、辞世の句と本人が位置づけたということになれば、この句は自嘲というよりは自虐といってもよいような痛切さをもって迫ってくる。水洟の垂れた鼻をむきだしにして、自らの自尊心を躊躇なく踏みにじり、そして自ら死を選んだのである。

おそるべき君等の乳房夏来る西東三鬼 たいへんよく知られた三鬼の代表作の一つ。敗戦の翌年につくられていることから考えて、時代の雰囲気を濃厚にまとった句と考えられる。戦争が終わった直後には、女性の装いが劇的に変わる。モンペ姿の無個性な服装から、思い思いの開放的な服装に一変するのである。中には豊かな胸を強調してはばからない女性もいたことだろう。また敗戦の痛手からなかなか立ち直れないでいる男たちにくらべ、女たちの現実に処していくたくましさも目をひいたに違いない。それをも含め「おそるべき」と多少の揶揄を込めて言い放ったのである。その言い放った本人の姿をも彷彿とさせるところもまた三鬼らしい。

人間の皮膚より寒いものはなく阿部青鞋 言われてみればまことにそのとおり。寒いという言葉をもって認識するのは、人間だけなのだから、これ以上に寒いところは他にないのだ。寒暑は逆になるが、三橋敏雄に「鬼貫忌裸になればなほ暑し」という句があるが、両句はほぼ同じ視点に立っている。鬼貫といえば、敏雄と青鞋は新興俳句運動が弾圧された戦時中、渡邊白泉などともいっしょに古俳諧をさかんに研究していた時期がある。滑稽味をたっぷりと湛えた古俳諧は、芭蕉即俳句といった硬直した考え方にとらわれない自在さを彼らの句業にもたらしているように思われる。ついでなので紹介しておくが、鬼貫の「我むかし踏つぶしたる蝸牛哉」を踏まえたと思われる「かたつむり踏まれしのちは天の如し」という句を青鞋はつくっている。

五体隠る昼寝の巨き(あしうら)橋詰沙尋 誰はばかることなくどうどうと昼寝をしているのである。腹掛けなどを掛けている程度なので、足の裏がはっきり見えている。それがまるで全身を隠してしまうほどの存在感を示しているというのである。足の裏を詠った句といえば、尾崎放哉の「足のうら洗へば白くなる」が名高いが、この句のせつなさとはまるで対照的な豪放さをもった句である。

わが頬の枯野を剃つてをりにけり渡邊白泉 髭を剃っていたら、自分の頬の髭が枯草や薄のように思えてきて、これは枯野ではないのかと一瞬の興をもよおしたのである。単純なつくりだが、「枯野」は芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を当然、思わせるわけで、そうすると芭蕉の句を諧謔、あるいは自嘲に転じた句と考えることができる。白泉に師事した敏雄に「老ひ皺を撫づれば浪かわれは海」という句がある。

ぢかに触る髪膚儚し天の川三橋敏雄 季題としての天の川は七夕伝説と関連づけられ、男女の逢瀬を背景に詠まれることが多い。掲出句も明らかにそれに因んでいて、句意に別段、難しいところはない。男女の間に横たわるはかなくも哀れな宿命が過不足なく述べられているのだが、注目したいのは、この字配りの美しさである。俳句は使う文字の数が極端に少ないこともあって、文字表現におけるタブロー絵画的な面が強い。漢字や仮名がおりなす視覚的なリズムやハーモニーも重要な要素として働くのである。その点でもこの句の完成度の高さは比類がない。身体に材をとった他の敏雄の句でもそれは言える。「霧しづく体内暗く赤くして」「萬物やあかがり強くたこ優し」「体温を保てるわれら今日の月」「撫でて在る目のたま久し大旦〈おおあした〉」等々。

尿の出て身の存続す麦の秋永田耕衣 自分の体が存在することの不思議さに、ふと意識をとめた経験は誰しももっているのではないだろうか。作者は排尿の時にそれを思ったのである。「麦の秋」も効果的で、一面に黄色く色づいた麦畑が句意と微妙にからまり、句の奥行きをつくっている。

子の(しり)を掌に受け沈む冬至の湯田川飛旅子 まだ手のひらにのるぐらいの大きさしかないお尻の我が子を受けとって、いっしょに風呂に入っているのである。お湯が湯船を溢れるとすれば、それは子を得た幸福感が溢れ出るようでもある。

子は膝におとがひ乗せて灯下親し波多野爽波 膝を立てて座っている子が、立てた膝小僧の上に自らの顎を乗せている、という光景。この格好は、たとえば叱られた後に思い詰めて考え込んでいる状態、であるのかもしれない。秋の夜の、電灯の下でのそうした子の姿をいとしく思う親の心持ちを、「灯下親し」という秋の季語でうまく言い留めている。

すなあらし私の頭は無数の斜面夏石番矢 まったくのイメージの中での心象風景である。しかしこの幻想性は確固とした反応を読むものの体に引き起こす。それはこの句がきわめて精緻につくられているためでもあるだろう。「すなあらし」と仮名表記にしたのも効果的だし、ともかく「無数の斜面」が見事というしかない比喩である。

掌をひろげ指を動かすと一本だけが笑い出したり山崎方代 もちろん指がかってに笑い出すということはあり得ない。方代は生涯、漂泊者、一介の無用者として生きた異色の歌人。そういう自分を戯画化した作品も多い。掲出歌は表情など持つはずのない指の動きに、笑いを見出したのである。というより笑わせてみようとうち興じてみたのである。笑ったわけではないが、阿部青鞋に次のような句がある。「左手に右手が突如かぶりつく」。

背中と背中寄せてすわれば新しきブックエンドに似たる冷たさ西田政史 背中合わせに坐った形をオブジェと捉えたのである。血の通わないオブジェだから、それは冷たいのである。現代の人間関係のある側面を鋭く切り取った。

2003-09-08 公開