よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.17衣服
衣食住というぐらいで、衣服は人間の生存に欠かせないものの一つで、寒気から身を守るという物理的な必要性ばかりでなく、装飾という文化的な面においても、人間の生活に欠くべからざるものである。今日のように暖房が普及してしまうと、寒気を防ぐといった実用面での意味が薄れがちだが、時代を遡るほど衣服は実用面で意識されるものだった。たとえば十二単〈じゅうにひとえ〉という重ね着の過剰装飾の衣服は、平安末期の寒冷化の気候が影響しているといわれている。藤原道長の「御堂関白日記」によると、当時の死亡原因の半分以上は結核で、その原因は寒冷による風邪だと考えられている。道長自身、始終、風邪をひいていたらしい。同時に感覚的、文化的な側面も強く意識されるようになり、衣服はその両面から人間生活に密着してきたのである。
湿度が高く、季節による寒暖差の大きい日本の気候では、衣服による体温調節の重要性は、家屋のそれを上まわり、したがって季節に応じて衣服を替えた。これが「衣更〈ころもがえ〉」で、単独でいう場合は陰暦4月1日に冬着を夏着に替えることをいい、陰暦10月1日の夏着を冬着に替えることは「後の衣更」といった。季節によって衣服を替えることによって、季節に対する繊細な感覚もまた養われていったのである。
枯園に向ひて硬きカラア
生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 この句の収められた第三句集『紅絲』は、師事していた山口誓子の主宰誌「天狼」創刊に参加した頃の、俳人として最も油ののりきった時期の作品でまとめられている。同時にこの時期は近親者の死が重なったり、身辺多難をきわめていた。そこからくると思われる緊張感をこの句からは感じる。藍は使い込み、水を潜れば潜るほど、その色合いを深めていく。多佳子もまた次々に襲いかかる不幸に耐え忍びながら、俳人としての境地を高めていった作家だった。「うつむくは堪へる姿ぞ髪洗ふ」という作品もある。
毛皮店鏡の裏に毛皮なし 主婦としての日常生活に取材した作品の多い汀女だけに、衣服を詠んだ秀句も多いのだが、この句は異色である。このとぼけたおかしみは、一にかかってそれが毛皮であることによっている。「洋服店鏡の裏に洋服なし」では俳句にならない。獣の体毛である毛皮を剥ぎとって、人間自らが身にまとうものにしたということ自体にも、かなり喜劇的な匂いがするし、それが高級品として麗々しく飾られているというのも、なんだかおかしい。毛皮を剥ぎとられる前の獣だったら、鏡の裏に逃げ隠れることもあるだろう。
その子の家の藁屋根厚しちやんちやんこ ちやんちやんこは主に子供用の綿の入った袖なし羽織。それを着た子供の様子と厚く藁を葺いた屋根をもつ家を対比させている。ともにもっこりした姿において共通するわけである。上句七七の一見、もたもたもこもこしたような語調が、句意と絶妙にからまり、効果を上げている。
紺絣春月重く出でしかな 作者の自解によると、この紺絣は久留米絣で、兄からのお下がりを順に着せられ、歳ごとに絣模様が細かくなっていったという。彼の世代では、久留米絣は子供から青春の着物であった。春月は秋の月とは違って、澄みわたった冷々しさはないものの、淡くほのかな艶がある。それが山端をゆっくり昇ってきたのである。かすかな憂いをおびた青春性が匂い立ってくるようだ。「重く」という端的な言い切りがその抒情性をくっきりと縁取り、効果的だ。青春俳句というと誰しもがあげる龍太初期の名作。
見かけよりぬくきものなり頬被り 暮石の郷里は高知県本山町の暮石〈くれいし〉という山村で、俳号にしたぐらいだから愛着も強かったのだろう、90歳を過ぎてから帰郷している。その帰郷直後の作。昔、よく見かけた頬被りをたわむれにしてみたのだろう、それは思ったよりも暖かかった。言葉に過重な負担をかけず、自然に詠み下すことを信条とした暮石らしさが横溢した句である。頬被りは戸外労働の場で、寒気や埃を防ぐために、汗を拭ったりするための一枚の木綿の布を利用したもので、一昔前は到るところで見かけたものである。阿部みどり女には「苗床や風に解けたる頬かむり」という句がある。
海鳥やひとびとゆるく着物着て 「秋風に和服なびかぬところなし」という島津亮〈りょう〉の句があるが、上掲句の「着物」も和服に間違いないだろう。巻衣式筒型の和服は主に帯によって固定しているだけだから、いかようにもゆるく着ることができるし、風が吹けば裾や袖がなびく。そのような和服の特徴に、海の上を見るからに自由に飛んでいる海鳥を取り合せたのである。陸上に縛られている人間は、せめて着物をゆるく着ることぐらいの自由さしか思うにまかせないとも読める。
地下鉄の口より祭衣の子 街角のスナップである。地下鉄の駅の出入り口に、ひょこりお祭りの半纏を身にまとった子供が姿を現したのである。驚くほどの意外性があるわけではない。都市ではありふれた光景ともいえる。でもこういわれてみると軽く意表をつかれたような新鮮さを感じる。その軽い心の動揺は、都市の中の祭りというもののあり方にも響いている。
外套のままのひる寝にあらわれて父よりほかの霊と思えず 上に羽織るものが手近にないので、外套を着たまま昼寝してしまったところ、夢に父の霊らしきものが出てきたというのである。あくまで父らしきものであることが大事な点で、そこで外套が活きてくるのである。林あまりは短歌における外套は「異国や死の世界といったどこか遠い場所からやって来たり、あるいはそこを去って行ったりする者が身につけている象徴的な衣装…また他者の目から自分の内面を覆い隠す道具」として使われてきたと述べているが、まさにこの歌の外套はそのような役割を担ったものだろう。寺山の父親の世代の俳人たちは「外套の裏は緋なりき明治の雪 山口青邨」「外套の襟を立て東京の隅へ帰る 加倉井秋を」といった句をつくっている。「あおぞらにトレンチコート羽撃〈はばた〉けよ寺山修司さびしきかもめ」は福島泰樹の追悼歌である。
2004-02-09 公開