よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.26水
俳句と水ということになると、まず山頭火のことが思い浮かぶ。「ここまで来し水飲んで去る」「飲まずには通れない水がしたゝる」「ひとりあるけば山の水音よろし」「へうへうとして水を味ふ」「ふるさとの水をのみ水をあび」「落葉するこれから水がうまくなる」等々、水を詠んだ作品を数多く残しているだけでなく、その放浪の道筋にはかならずといっていいくらい、いわゆる名水が存在した。つまり山頭火の旅はおいしい水を求める旅だったという広島電機大学の佐々木健教授の研究があるくらいである。生母は山頭火11歳の時に井戸の水に身を沈める、温泉と酒をこよなく愛すといった点まで水と縁のある俳人だった。日本の自然環境はその豊かな水と切っても切れない関係がある。中塚一碧樓の「かぐはし水うごく国原稲穣〈みの〉りたり」や飯田龍太の「百姓のいのちの水のひややかに」などの作品にうかがえるように、水なくして日本の稲作は考えられない。さらには「禊ぎ」に端的にあらわれているように、なんでも水に流してしまおうとする日本人特有のメンタリティーにも水は深く関わる。また産湯や末期の水、あるいは若水といったかたちで、水は日本人の生命観そのものにさえ関わっているのである。それよりなにより蛙が飛び込んだ水の音の発見という事件の方が、俳句と水との関係では重要なのかもしれない。
滝の上に水現はれて落ちにけり 虚子の提唱した客観写生を体現した句としてつとに名高い作品。その虚子には「桐一葉日当たりながら落ちにけり」というこれまた客観写生句として知られた作品があるが、虚子の句がかなり抒情的に落ちるという現象を捉えているのに対して、夜半の句では簡明冷徹かつ論理的なアプローチによって、落ちるという無限の「動」の世界を一瞬の「静」の世界に停止させる。そのことで滝というものの永遠性を定着させることに成功している。正木浩一の「永遠の静止のごとく滝懸る」という句は夜半の句への俳句的説明だろう。
百日紅ごくごく水を呑むばかり 百日紅は炎天にも萎えず、鮮紅色の鮮やかな花を咲かせる印象深い花である。その炎天での喉の乾きを潤したことを、ぶっきらぼうに言い放った句。しかし舌足らずで乱暴な感じはない。この潔さが水のうまさを引き立てる働きをしている。波郷のことだから酒を飲んだ後とも考えられる。山頭火もそうだが、おしなべて酒好きの俳人は水を詠ませてもうまいようだ。
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 鳳凰堂は宇治平等院の阿弥陀堂の別称。屋根の両端に鳳凰が取り付けてあることから、このように呼ばれた。今、鳳凰堂に向かって、その前の阿字池を鎌首を上げた蛇が泳いでいくのである。鳳凰堂と蛇の取り合わせだけでは非現実的なわざとらしさを感じるが、「水ゆれて」によって、確固とした現実感を与えられた。
いづかたも水行く途中春の暮 「雨、あられ、雪や氷とへだつれど、とくれば同じ谷川の水」という道歌がある。水は実にさまざまなものに姿を変えるが、溶けてしまえば同じ水だという意味。つまり「水行く途中」なのである。しかし「春の暮」とあるからには、生命にそのことを拡大して考えるべきだろう。水はさまざまな姿をとって、あらゆる生命体を支えている。そのことを「途中」と言い止めたのである。
みづすまし遊ばせ秋の水へこむ みずすましは小さな昆虫類を捕らえるために、水面をぐるぐる旋回する。その水面は張力で凹んで見えるのである。「へこむ」が切れ味の鋭い把握である。村上鬼城には「水すまし水に跳ねて水鉄の如し」という掲出句とは把握のしかたが対照的な句がある。
これ以上澄みなば水の傷つかむ この句をつくった時、作者は46歳。もはや青春といえる年齢ではないが、この句には痛々しいほどの青春性が脈打っている。秋の深まりの中、水は清冽さをきわめる。透きとおるというだけでは足りない、痛いほどの水の澄みを、「水の傷つかむ」という意表をついた表現で表わした。もちろん傷つくのは作者の純粋な詩心でもある。
水を見て目をぬらしたる春のくれ 母恋句集ともいうべき『於母影帖』に収める一句。水を見ていたら涙が出てきたというだけの句意なのだが、古俳諧の趣が生かされ、ゆったりした味わいの佳句である。「人は水によって、見知らぬ故郷へ向かう」とユングはいったが、作者の涙は望郷の涙、あるいは母恋の涙なのだろう。
天の川水車は水をあげてこぼす 天にある「天の川」は果てしなく悠久の流れを続けるしかない。一方、地にある「水車」は水を汲み上げ、そしてこぼし続けるしかない。厳然たる事実そのままである。しかし読み味わっているうちに、この天と地はいつしか水によってつながれ、読者はなんともいえぬ豊かな気持にさせられているのである。
流れねばならぬと流れ冬の水 身を切るような凛冽な冬の水が流れている。一切のこちらの感情移入を拒否しているかのような厳しい表情だ。まるでただただ流れることのみを目的としているかのようだというのである。
春の月噴水は水脱ぎにけり 噴水の水が噴き上げる様は、さまざまな角度からこれまでも俳句に詠まれてきた。中村汀女「噴水や東風〈こち〉の強さにたちなほり」、長谷川秋子「噴水の尖が離さぬ雲一片」、亀井糸游「噴水の高しお手玉あそびの穂」等々。しかし噴水が水を脱ぐとは秀逸である。高まってきた噴水の水が、あるところまでくると花が開くように内側から外側へ崩れる。かなりエロチックでもあるその様態からの自然な発想だとしても、この自在さは貴重である。
つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり この水は闇の中で人に意識されることなく存在していたのである。それが一瞬の花火の光に照らされて、眼前に出現したのである。その時、水の面に水が溢れていた。この「あふれをり」が見事にいきいきと水の存在を主張している。
2004-06-28 公開