よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.20犬
犬と日本人とのつき合いは古く、縄文時代の遺跡などに、人間といっしょに埋葬されたり、犠牲にされた例などが報告されている。したがって文学作品にもさまざまなかたちで登場するが、近世の俳句においてはどうもあまりパッとしない。芭蕉も「行く雲や犬の駆け尿〈ばり〉村時雨」「草枕犬も時雨るるか夜の声」などをつくっているが、できとしてはいまいち。弟子の凡兆の「犬の尾に冷たき土間の十三夜」は悪くないが、彼の代表句というわけでもない。川柳では、食用にした赤犬や生類憐みの令をモチーフにした句が目につく程度。あまりに身近な存在だったためか、あるいは季語にならなかったためか、少なくとも猫には一歩及ばずというのが江戸俳句における犬の存在である(「犬の尾を踏みてかよふや猫の恋 子交」「犬はそこにをれとて猫は火燵哉 逸竹」)。しかし明治に入ると、犬が俳句の題材になるケースが増える。身近なものにも目を向けようという意識が芽生えてきたせいかもしれない。とはいっても作品でみるかぎりは江戸期の延長という気がする(「犬が来て水飲む音の夜寒かな 正岡子規」「冬の夜や子犬啼き寄る窓明り 内藤鳴雪」。それに対して、大正昭和の俳句ではもっと自由にいろんな角度から犬というものを捉えるようになる。
春寒やぶつかり歩く盲犬 村上鬼城は貧困と耳疾でずいぶん苦労した人。そんな自分を投影したと思われる盲犬を詠んだ一連の作品を残している。「長き日や寝てばかりゐる盲犬」「行春や親になりたる盲犬」「大雪や納屋に寝に来る盲犬」等々。加藤郁乎に「元日や三本足の犬走る」という句があるが、不具であることをこのように詠まれるところにも、日本人が犬をどのような存在として見てきたかが、現れているのではないだろうか。
雪の原犬沈没し躍り出づ 童謡「雪」でも歌われているように、犬は雪の中を駈けまわるのが好きだ。狩猟犬としての習性が残っているのかもしれない。そんな嬉々雀躍として雪の原を駈ける犬の姿態が鋭く捉えられている。特に「沈没し躍り出づ」が巧みである。語感そのままに躍動する犬の姿をイメージさせる。
曳かるる犬うれしくてうれしくて道の秋 久しぶりに散歩に連れ出した時などに、よく見られる光景だ。ほんとうにうれしくてたまらないように全身で喜びを表わし、飼い主にじゃれついてきたりする。この中七の大幅な字余りが、うれしくてどうしていいかわからないような犬の様子をよく伝えている。こんなに明るい「道の秋」は類がないだろう。
さみだれや呼ばれて犬のかへりみる 五月雨の無聊さから、軒下の犬に呼びかけてみたところ、「なにっ」という感じで振り向いたのだろう。きわめて日常的な光景を切り取っただけのようだが、その飼い主と飼われている犬との親密な関係をさりげなくごく自然に納得させる優れた作品だ。
赤き犬ゆきたる夏の日の怖れ 昭和10年の作。大学卒業を翌年にひかえ、実作でも評論でも俳句へのめり込んでいった頃の作品で、すでに近代的なポエジーを俳句に持ち込もうとする姿勢が顕著である。道で出会った赤い犬に、なにか不吉なものを感じたのである。それはあの世とこの世を行き来しているかのような不気味さを漂わせて、人間たちに立ち混じって街を行くのである。
犬抱けば犬の眼にある夏の雲 昭和18年頃の、まだ多行形式に移る以前の作品。俳句形式そのものの変革を激しく追及した戦後の作品にはみられない従来の形式との幸福な一体感といったものを感じる。重信は一種のシンパシイを犬に感じていたようで、この3年後には「敗け犬が慕ふ凋然たる散歩」という句もつくっている。
炎天の犬捕低く唄い出す 野犬狩は以前はよく目にしたものである。江戸の町にいかにたくさんの犬が放し飼いにされていたかを、来日した多くの外国人がその旅行記などに書きとめているが、明治に入って狂犬病の知識が伝えられると、その予防のため首に名札をつけていない野犬は捕らえて撲殺することになったのである。なんとなく後ろ暗いその職業らしさをうまく捉えた句である。三鬼には「犬の蚤寒き砂丘に跳び出せり」「犬を呼ぶ女の口笛雪降り出す」など犬の句が比較的多い。
ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道 誓子の「土堤を外れ」と近い句意。われわれ人間にはあずかり知らぬ犬なりの事情があって、犬はひた急いでいるのである。森田峠には「犬急ぎゆけり聖夜の塀に沿ひ」という句もある。「急ぐ犬」というモチーフは現代俳人の触角を刺激するらしい。草田男には「真向から聞く耳雪の日本犬」という日本犬の愛らしい姿態をシャープに捉えた好句もある。
天澄めるとき籐椅子に犬居らず 「天澄めるとき」とくればなにかの実在を期待するところだが、意表をついて犬の不在をもってきたところがこの句の見所。籐椅子が定番の居場所の我家の犬。それがなぜか今日にかぎっているべきところにいないのである。いるべきところにいるべきものがいないことで、どこまでも澄みきっている秋の空に微妙な表情が生まれてくる。
元旦の一匹分の犬の餌 たくさんの犬がいるわけではないだろう。一匹の犬に一匹分の餌があてがわれたというだけのこと。ところがそれが元旦であるというだけで、なんともいえずおかしいのである。なにかお祝い事があって、その家の飼犬の餌にもお裾わけが及ぶということはあるだろう。でも犬にしてみれば少々豪華になった餌はありがたいが、ありがたさもそこまでで、それ以上ではない。人間と犬、それぞれが固有の世界をもちつつ共存することで生じるギャップを、さりげなく見せてくれる。作者には「犬と見る人類全盛時の桜」という名作もある。
冬雨は小暗く降れり軒下に静かに犬は目をとぢにけり 汀女の犬は呼べば振りかえってくれたが、この歌にそのような動きはない。飼い主が呼ぶこともなければ、犬もただじっと目をとじているだけ。そこに生じる静謐な時間がこの歌のいいたいところだろう。人間と犬はそれぞれの時間にじっと耳を傾け、互いの世界に沈思していくのである。
2004-03-22 公開