よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.6日用品
日用品と一口にいっても、衣食住にわたるあらゆる道具類や品物が含まれるわけで、あまりにもその範囲は広い。俳句が季題としてとり上げてきたそれは、衣では和服、きもの関係が圧倒的に多く、住では防暑、防寒に関わるものがやはり多い。いずれにしても、日用品自体は自然のものと違って直接、季節感を感じさせる存在ではないし、俳句表現の中でもメインの題材としてではなく、小道具的にしか扱われてこなかった。とはいっても、やはりすぐれた俳句作家は日用品に向けるまなざしも凡庸ではないことが、これらの作品から知れるだろう。
秋雨の
湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ 昭和14年にしてはモダンで艶っぽく、甘く情緒的な句である。女性を詠う巧みさにおいて、三鬼を超える俳人はいまだに出現していないのではないだろうか。戦後の30年には「ヘヤピンを前歯でひらく雪降り出す」という句をつくっている。前歯で開くのは髪にヘヤピンを挿すために、片手が髪を押さえているからである。さりげなくかつ鋭く女性の所作を捉えている。
扇風機止り醜き機械となれり 動くためにつくられた機械は、その動きを止めば生命を奪われた生物と同じで、ただの醜い物体でしかない。それを非情ともいっていい冷徹な目で見つめた。
短日の時計の午後のふり子かな 短日という冬の季語が生れた時代には、もちろん今日の機械時計は存在しなかった。むかしは明六つと暮六つで昼夜を分かち、それぞれを6等分する不定時法だったから、昼の1時間と夜の1時間は同じ1日でも、年中、長さが違った。文字どおり夏は日が長く、冬は日が短いのである。短日という不定時法の時代の言葉が機械時計による定時法の現代に生きるおかしさがこの句の見所だろう。「時計屋の時計春の夜どれがほんと」(久保田万太郎)、「立春の暁の時計鳴りにけり」(前田普羅)もよく知られた時計の句。
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる 「観念の形象化を、これほど見事に実現した作家は、他にいない」と高屋窓秋が赤黄男を評しているが、この句ではどんな観念が形象化されているのだろうか。問題は句切れのところで一字分の余白が設けられていることだ。その働きはおそらく言葉の線条性に揺さぶりをかけるためである。「偶然の蝙蝠傘が倒れてゐる」という意味を作者は伝えたいわけではないと、この余白は主張しているのである。つまり言葉の意味の必然性は、その線条性によって保証されるが、この句でいっている偶然というものは、線条性を切断することが必要だということである。余白のない場合の、特に「偶然の」はどのように働くのか判然としないが、余白を置いて読むと、意味としてではなく、俳句という詩として、読むものに説得力をもって迫ってくる。それがこの句における観念の形象化である。
死ぬも生きるもかちあふ音の皿小鉢 冠婚葬祭のすべてに飲食がともなう。うれしかろうが、悲しかろうが、人が集まるところでは飲食がつきものだ。それを皿小鉢の音で表わしたのが秀逸である。「かちあふ」も効果的で、人間関係にも響かせている。三橋敏雄に「もの音や人のいまはの皿小鉢」という句があるが、同時期につくられているので、どちらかがヒントを得たものであろう。
冷蔵庫に入らうとする赤ん坊 選んでおきながら、こういう句の解説はつらい。この句をともに面白がってくれない人とは、俳句の話をする気になれないが、この面白さをどう伝えればいいのか。青鞋は渡邊白泉や三橋敏雄らと古俳諧を熱心に研究した時期があるが、蕉風以前のアクロバチックな言語遊戯主体だった談林俳諧を熟知していたことも、どこかこの句の面白さにつながっているような気がする。天衣無縫のように感じさせるが、それはさんざん技巧を凝らした果てに、巧まずして行きついた天衣無縫ぶりのように思われるのである。この句の鑑賞で、夏で暑さがきびしいために赤ん坊が冷蔵庫に入ろうとしたというのがあったが、実もふたもないまことにつまらない鑑賞である。
パラソルを廻し胎児をよろこばす 色鮮やかに模様の描かれた絵日傘をくるくる廻す所作はそれだけで、うきうきした楽しさを伝えるが、本人は、これはお腹の中の赤ちゃんを喜ばしているのだというのである。確かに母親と胎内にいる赤ちゃんはまだへその緒で結ばれ、一体といってもいい関係にある。母親の楽しい気持は赤ちゃんにもある程度、伝わるかもしれないが、もちろんパラソルを見ることはできないはず。にもかかわらず、このように言い切ったのは、身ごもった母親の実感なのだろう。胎児と言っているところには滑稽味も感じる。
一生の幾箸づかひ
受話器からしやぼんの如き母の声 電話で聞く母親の声をシャボン玉に喩えたわけだが、秀逸な比喩である。シャボン玉はふつう果敢ないこと、頼りないことに喩えられるが、このように言われてみると、作者と母親との関係が如実に浮かび上がってくる。
月夜疲れて石鹸の泡生む手 仕事に追いまわされるようだった忙しい一日が終わって、深い疲労感が全身を浸す。ぐったりして手を洗っていると、洗うというより手はただただ石鹸の泡を生んでいるだけのような気がしてくるのである。体言止めも効果を上げている。
抱え持つ七輪の火に輝きて階段を妻の上りくるなり 暖房のためか煮炊きに使うのか、ともかく妻が七輪を抱えて階段を上ってくる。その火に照らされた妻は日常の次元のものではないような気がしてくるのである。
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり 湯呑茶碗の温かさは、誰が何と言おうと侵し難い自信に満ち溢れている。それにくらべ、この自分の自信のなさは、本人が保証ずみ。それは「しどろもどろ」としか言いようのない情けなさなのである。
2003-08-25 公開