よもやま句歌栞草

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。

中村 裕(俳人・編集者)

Vol.10芸術

俳句がその題材として、さまざまな芸術作品を取り上げてきたのは、むかしから見られたことだが、近現代の俳句においては、その芸術作品が日本のものばかりではなく、海外のものへも広がったことが大きな変化である。同時にそのことは大きくいえばひとつの文学ジャンルとして、俳句が近代日本社会においてどのように変化していくべきかという問題とも連動していた。その意味でそれぞれの俳人がどんな芸術作品を、どのように自らの句の中で詠んでいるかには、その俳人の俳句そのものへの考え方をも垣間見ることができるのではないだろうか。

妹に軍書読まする夜長哉正岡子規 明治25年末に子規は、陸羯南〈くがかつなん〉の経営する日本新聞社に入社するが、その直前に故郷松山から母八重と妹律を呼び寄せ、いっしょに暮らし始める。ところが3年後に子規はカリエスを発病。以後、35年に病没するまでほとんど病床に釘づけの身となり、律はそんな兄の看病に明け暮れることになるのである。この7年間の子規の仕事は、近代俳句史上、さらに近代文学史上、決定的な影響をもつことになるわけだから、病床の子規を支えた律の存在は無視できない大きなものといえる。ところが律にふれた子規の文章のほとんどは彼女への悪口雑言に終始したものなのである。彼女への感謝の気持が子規にないはずはないのだから、これは子規という人間を解く上で、たいへん面白い問題である。この扱いにくい兄をもった妹は、弱虫だった幼少時代の子規が、近所の子に泣かされて帰って来たりすると、すかさず石などをつかんで兄の仇討に飛び出したという。「薪をわるいもうと一人冬籠」も名高い。

面体(めんてい)をつゝめど二月役者かな前田普羅 二月役者というのは二月礼をする役者という意味であろうか。二月礼は年始は忙しくて挨拶回りのできない芝居や飲食業にたずさわる人々が、二月一日に挨拶回りをすること。あるいは単に春浅い二月のまだ寒さの残る日に、手拭などで頬被りして、人目を避けるように役者が通るが、顔を隠すことがかえって役者らしさを際立たせてしまうと解釈してもいいだろう。いずれにしても江戸情緒を濃厚に含んだ句である。

誰が為に花鳥諷詠時鳥京極杞陽 杞陽は兵庫県豊岡藩主の京極家十四代当主(子爵)で、宮内省式部官を務めた人。生涯にわたって深く高浜虚子に傾倒した。その虚子の亡くなってしまった今、自分はいったい誰のために俳句をつくっているのだろうかという虚しさを詠った句と一般に解されている。それは「花鳥諷詠」がホトトギスという結社内では俳句をつくる行為そのものをさすからである。しかしその前提なしで、句の意味するものだけにしたがって解釈すると、花鳥諷詠はホトトギスという結社の外部から見れば、単にホトトギスで虚子の唱えた指導原理にしかすぎないわけだから、花鳥諷詠という指導原理はいったい誰のために存在するのかといった意味に解することも可能になる。もちろん作者本人にそんな意図はないのだろうが、僕なんかはこのような批判的な意図を込めた句と解釈したほうがずっと面白い。

しやが咲いてひとづまは憶ふ古き映畫三橋鷹女 鷹女41歳のときにまとめた第一句集に収められた句。23歳で結婚しているから、すでに「ひとづま」歴は20年になろうかというころ。乙女のころのロマンチックな恋への憧憬などに対するノスタルジーが「古き映畫」なのだろう。しかしいまはともかく人妻なのだから、回想ばかりに浸っていてもしようがない。句集には「しやが咲いてひとづまは財布乏しくゐる」という句が掲出句と並べられているが、このように現実も決して忘れないのが鷹女だった。「春雪いくたび切腹で了る色彩映画」や「みんな夢雪割草が咲いたのね」という名高い句もこの句集に収められている。

夢に舞ふ能美しや冬籠松本たかし たかしとともに昭和10年代、ホトトギスの中心作家だった川端茅舎は、たかしを「生来の芸術上の貴公子」と評した。この句もまことに端正にして優艶。完成度の高いたかしらしい作品である。たかしは代々江戸幕府に仕えた能楽の名家に生まれるが、20歳ころには病のために能を断念する。それについては病気だけでなく、能に対する精神的な行きづまりもあったとされるが、いずれにしても能への未練は大きかったはず。その未練が恨みとなって、夢の中の舞台で舞っているとすれば、それはまさに夢幻能の世界ということになる。現実の現し世では、冬籠に入っているとしても。

ショパン弾き了へたるままの露万朶(ばんだ)中村草田男 「ピアノの詩人」ショパンのピアノ曲は、楽器としてのピアノが著しく発達していた時代に、その機能を最大限に引出そうと作曲されたものが多く、ピアノという楽器の表現力を革新的に高めるものだった。そのノクターンかプレリュウドかわからないが、弾き終えたか、弾き終わったのを聴いたときの感慨である。「まま」とあるからには、曲は終わったが、余韻はまだ続いているのである。まだ終わらせたくないという気持もあるだろう。この余韻がまるで万朶の露となって、きらきらひかり輝いているようだというのである。それはピアノの奏でる一音一音がそのまま露の一粒一粒になったようでもある。

西鶴の女みな死ぬ夜の秋長谷川かな女 昭和20年の作で、戦時中の6年間は句作は続けていたが、本人は俳句においては空白期間にしておくと言っている。戦争の惨禍は男だけではなく、女にも容赦なく降りかかったのである。その時代背景もこの句に投影されているだろう。西鶴の浮世草子に登場する多くの薄命な女性たちを憐れみ、いとおしんでいるわけだが、東京日本橋の富貴な家に生まれたかな女は、商都大阪を作品の土壌とした西鶴へは、一種、覚めたまなざしをもっていたかもしれない。そんなシニカルな感じもこの句からは受ける。

遺品あり岩波文庫『阿部一族』鈴木六林男 戦争俳句の名吟としてつとに名高い作品である。戦友の遺品の中に岩波文庫版の森鴎外『阿部一族』があったというだけで、感慨らしきものをもらしているわけでもなく、まことにそっけないつくり。しかし読者に与えるインパクトや句意の確かさは見事なもので、さまざまな人の解釈のぶれもほとんどない。文学作品名をそのまま使った俳句として、最も成功した句ではないだろうか。『阿部一族』のストーリーは、主君への殉死がかなわず、意地を通して死を選ぶ一族の話。それが戦争を深く懐疑しながらも、やむなく戦争に殉じていく戦友の精神と重なり、戦死を免れた作者の胸に深く突き刺さってくるのである。

音楽漂う岸浸しゆく蛇の飢赤尾兜子 昭和30年代の前衛俳句運動を代表する作品として知られた句。既成の俳句観では理解できない難解な句とされるが、つねに既成概念と戦い、それを乗り越えてきた俳句の歴史を思えば、この句はこの句なりに俳句史の正道に立っているのだとも言える。それにこの句が難解とされるのは、多分に読者側の問題で、率直に読んでみれば、作者が構築しようとしているイメージは明らかで、少しも難解なところなどない。音楽が響いたり、聴こえていたりしているのではなく「漂」っている岸に、沿ってではなく「浸し」ながら泳いでいく一匹の飢えた蛇。そのイメージにたくされた作者の内面の不安感、緊迫感、飢餓感に思い致せばよいのである。

四角な空万葉集にはなき冬空加藤楸邨 高層ビルなどが区切る空は確かに方形に見えるだろう。それは高層ビルのもちろん存在しなかった万葉の時代には目にできなかったものかもしれない。しかし厳密に考えれば、万葉時代の人々がまったく四角な空を目にしなかったかというと、それは断定できない。この辺がなんとなくこの句のゆるさなのだが、やはり万葉集がよく効いていて、他の文学作品では俳句にならないと思わせるのはさすがである。

雪月花美神の罪は深かりき高屋窓秋 雪月花とは季節の景物の総称で、それを古来、愛でることで日本人の美意識が形成されてきたのだとすれば、雪月花に美神が宿ったということなのである。その罪が深いということは歌や俳句の罪も深いということで、その意味では、晩年に達した俳人 窓秋の懺悔ととれないこともない。一方で「罪な人」といったくだけた言い方があることを思えば、案外、作者としては諧謔を効かせているのかもしれない。

智恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱寺山修司 罪といえば、人類の始祖 アダムが、神に禁じられていた「善悪を知る樹」の実を蛇に唆されて食べたことが、人類最初の罪。この歌の林檎にはその物語が響いているように思う。さかしらに智恵だけで書いたような詩が、まさに原罪そのもののように、林檎のなくなった空っぽの箱の上にたまっていくのである。

2003-10-27 公開