よもやま句歌栞草

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。

中村 裕(俳人・編集者)

Vol.15肉親

明治以降、大正にかけての俳句で、肉親を詠んだものは案外に乏しい。私的なことを表に出すことを潔しとしない明治人の気概なのだろうか。遡って「父母のしきりにこひし雉の声」と両親へのひたぶるな思いを詠った芭蕉や、早世した実母への思いを動物の母親の姿に託して詠った一茶など江戸期の俳人たちは、それぞれに屈託なく肉親を詠んでいるように思う。リゴリズムの強い明治という時代には、父や母を率直に俳句の対象とする雰囲気がなかったのだろう。しかし近代的な個人主義がしだいに浸透してくると、親と子の対立、確執などが切実な課題となってきて、肉親をめぐっての俳句も増えていく。父親喪失、母親喪失といわれる現代は、やはり親子関係の希薄さをベースとした作品が目につくような気がする。

あはれ子の夜寒の床の引けば寄る中村汀女 秋も深まり、夜の寒さもひとしおつのるある夜、寝についたのだが、わが子の床だけが、一人離れていることに気づき、気になってしようがない。思い切って引き寄せてみたら、思いのほかの軽さですっと引き寄せられたというのである。その果敢ないほどの軽さに「あはれ」としかいいようのない子への愛がこみ上げるのである。つとに名高い汀女一代の名吟。

母と寝て母を夢むる薮入かな松瀬青々 薮入りは正月の季語になっているが、正月とお盆の十六日前後に行なわれた奉公人の一日だけの休みで、多くは実家に帰った。炭太祗に「やぶ入の寝るやひとりの親の側」という句があるが、久しぶりに帰った実家では思いっきり親に甘えられるのが何よりの楽しみだった。太祗の句では親の側で寝るだけだが、この青々の句では母親と寝ていても、さらになおかつその母の夢を見ているというのだ。奉公先で毎晩、見るのはきまって母親の夢。その習いが続いているのだ。この夢を山口誓子は「この世で最も贅沢な夢」と評している。

端居してたゞ居る父の恐ろしき高野素十 縁側などで涼を味わっているのだから、この父親は充分にリラックスしているはずである。なのにそこにいるだけで、あいかわらず自分にとっては恐い存在。火事の次に恐いとされたこのような親父は、もはや絶滅してしまったようだ。

父となりしか蜥蜴(とかげ)とともに立ち止る中村草田男 蜥蜴は走ってきたのが急に立ち止まって、まわりを見まわしたりすることがある。その行為に自分の心理状態を重ねたものだろう。実際に我が子誕生の知らせを受けて、道を歩いていた時の体験と考えなくてもいいと思う。自分の子が生まれたということは、父親になるということ。考えるまでもないのだが、それを自覚することはある種の心理的動揺をともなう。それが立ち止まる行為になったのである。

姉ゐねばおとなしき子やしやぼん玉杉田久女 姉と妹の関係では、妹がわがままをいったり、周囲を困らせたりするのを、姉がたしなめるといった役回りを演じることが多い。性格的な面ももちろんあるだろうが、共犯関係ともいえるもので結ばれ、それぞれの役を演じている場合も多いのではないだろうか。お姉ちゃんがいなくて、なぜかいつもよりも静かな妹。彼女の頼りなげな心理状態が「しやぼん玉」にたくされている。

(ほと)もあらわに病む母見るも別れかな荻原井泉水 陰は女陰、女性の隠しどころである。そこさえも隠そうとする意識を失ったあられもない母の姿を眼前にして、もはや避けようもない死別を覚悟するのである。脳溢血で倒れたその母は半身不随となり、4年後に亡くなる。あらゆるものから目を逸らそうとしない冷徹な俳人の目。

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ森澄雄 「さう思ふ」と断定されちゃうと、もはやこの二人の間に他人の入り込む余地はない。夫婦随伴数十年の歳月の厚みである。ゆったりした語調も夜長の情感をしみじみと伝える。「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」なども妻恋い俳句として名高い。

井戸は母うつばりは父みな名無し三橋敏雄 この句の暗示しているのは自死。累代の母たちは井戸に身を投げ、父たちは梁〈はり〉に首を縊ったのである。名無しということは姓を持てなかった明治以前の庶民ということである。井戸もうつばりも昔の家にはかならずあったものだから、累々代々、家というものの犠牲になってきた庶民たちに思いを致しているのである。敏雄が親について詠った句は多く「父はまた雪より早く出立ちぬ」「肉附の匂ひ知らるな春の母」「夜の煤煙まつはり父子に別れなき」など佳句が多い。

枇杷とばば空港の遺失物柴田杜代 この「ばば」は自分のことだろう。おそらく空港で迷ったか、迎えの人が見つからないのだろう。お土産の枇杷を手にしているのか。大胆な言い切りに驚かされるが、空港を現代の家庭に擬してみると、行き場を失っている現代の婆たちの姿がほの見えてくる。

胎の子に母は風音母に秋池田澄子 胎児にとって母体のたてる音は風の音のように聞こえているかもしれない。しかしその母は秋のただなかで一人だけの感傷にふけっているようだ。あるいは瀟殺たる秋風に吹かれているのかもしれない。

受話器からしやぼんの如き母の声林桂 直喩によってシャボン玉と母の声を結びつけただけだが、「しゃぼん」の懐かしさとやさしい語感が、何か結びつけるなら母の声しかあり得ないと思わせるだけの説得力がある。おそらく故郷の母なのだろう。しばらく会っていないのだ。その隔たりがつくるあやふやさにも「しゃぼん」はぴったりマッチしている。

あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げて ふっと寂し五島美代子 好奇心の強い子供は何にでも手を出したがる。危ないから親はそれを次々に取り上げるが、そんなことを繰り返していたある一瞬、ふっと寂しさを感じたのである。子供の意欲を次々にそいでいるような自分。とは言っても危険からは守ってあげなければいけない。親であることの根本的な寂しさを、ある具体的な一瞬に凝縮させた。

2004-01-13 公開