よもやま句歌栞草

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。

中村 裕(俳人・編集者)

Vol.12恋愛

和歌、短歌において恋愛は、極めつけといっていい大きなテーマであった。相聞歌、恋歌ぬきにその歴史を語ることは不可能だろう。連歌、連句においても事情は同じで、連句一巻のうちには月、花に次いで恋の座があり、恋の句を詠み込むことは必須の条件だった。ところが子規の俳句革新運動では、連句をその対象から外したこともあり、また季語を詠み込むことを原則としたために、俳句で恋愛が詠まれることは少ない。しかし俳句が詩である以上、恋愛をテーマにしない方が不自然なわけで、ここに紹介するような佳品もつくられてきたのである。

われは恋ひきみは晩霞(ばんか)を告げわたる渡邊白泉 「青春譜」と題する連作中の一句である。この連作は「一本の道遠ければきみを恋ふ」から始まり、「きみとゆけば真間の継橋ふつと照る」の次にこの句が置かれ、「石坂のきみが家路はふれがたし」で終わるという逢引の終始を詠んだもの。募る恋心をもてあましている自分に、それを知ってか知らぬか彼女は、「もう霞が出てきたわねえ」などとなにくわぬ顔で言うのである。そのすれ違いに青春における恋愛の焦燥感というものがよく表わされている。この連作中に「松の花わが恋ふまみを隔てたり」があるが、戦後にも「松の花かくれてきみと暮らす夢」という秀作がある。

鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし三橋鷹女 この「愛」は略奪愛といった下卑たものではないだろう。愛はこちらから積極的に勝ち獲るもので、じっと待っていて得られるというものではないといいたいのだろう。それはブランコを漕ぐような快感や開放感を伴うのである。敗戦後の女権拡張の風潮が背景にあるかもしれない。同じ明治生まれの鈴木真砂女の名高い「羅〈うすもの〉や人悲します恋をして」と、その恋愛への姿勢において好対照をみせる。

雪女郎おそろし父の恋恐ろし中村草田男 すでに父なのだから、その恋の相手は母以外の女性ということになる。したがってその恋は自分も一員である家庭の崩壊をはらむもので、それも含めて子供にとっては恐ろしいものなのである。平和であった家庭を脅かす、自分には知り得ないなにか恐ろしい事態が起っているのである。その恐ろしさを表わすのに雪女郎はいかにも的確な措辞である。

人恋ひてかなしきときを昼寝かな高柳重信 早稲田大学在学中の作。恋に身悶えながらも、いつしか我知らず昼寝をしていたというわけである。シンプルに俳諧味をたたえた佳品だが、やがて戦後は直立一行書きという俳句形式にあき足らず、行をかえる多行形式を試行するようになる。

夏みかん酸つぱしいまさら純潔など鈴木しづ子 鈴木しづ子は敗戦後の混乱期の日本を彗星のようにかけ抜けた伝説の俳人。ダンスホールの踊り子、娼婦を経て、最期はアル中、睡眠薬常用者となり、自ら命を絶ったといわれているが、立証できるものは少なく、晩年は今でも謎のままである。残された2冊の句集を見るかぎり、確かにアプレゲール、肉体文学などが流行語になっていた世相を反映するような作品も多く、当時の人々が彼女に好奇の目を向けたのも理解できる。しかしその作品世界は、恋愛や性をダイレクトに詠んだものが多いため内容ばかりに目がいってしまうが、俳句作品としての骨格はきわめて確かなものである。

鶏頭に風吹く母のみそかごと星野石雀 「みそかごと」は秘め事で、男女が密かに通じ合うこと。つまり母の密通というただならぬ事態である。しかしそれ自体に立ち入ることはせず、ただ風に吹かれている鶏頭の花を配しているだけ。その妖艶な鶏冠状の花は歳長けた母の恋にふさわしく。またその茎は太くたくましいので、風による揺れ方も熟年の恋に相応したゆるやかなものなのである。

恋に恋ひ苺をたべて匙をなめ八田木枯 恋をしている自分の自己戯画化。恋に恋する自己陶酔を、ミルク苺などを食べていて、無意識に匙まで舐めてしまった行為に重ね合わせているのである。秀逸な取り合せで、自己陶酔をともなう恋愛の悲喜劇性といってもよい一つの側面を確かに捉えている。

怒らぬから青野でしめる友の首島津亮 ホモセクシュアル性、嗜虐性が濃厚にたちこめる作品だが、一元的で健康な俳句ばかりを見慣れている読者には、この句はいかにも不健全に見えるかもしれない。しかしつくられた昭和20年代という時代を背景に読むと、この嗜虐性にはその時代特有の異様な「親睦感」「デフォルメされた快感」(永田耕衣)といったものが感じられるし、草々が夏に向かって繁茂している自然の「生」と「死」へ至る首を絞める行為の対比もあざやかである。

外を見る男女となりぬ造り瀧三橋敏雄 季語としての「造り瀧」は、納涼の眺めとして庭園などにつくる人工的な滝。ホテルのロビーや高級レストランなどの借景にもよく配されてあるものだ。話題が尽きたか、話の途切れたカップルが思わず知らず、同時に互いから目線を逸らし、外へ目を向けたのである。そこにはいかにも人工的な造り滝が白々しく水を落としている。互いに飽いたというのではないだろう。男女間に一瞬おとずれる現実の侵入。その瞬間を冷静に捉えた。

老の恋もあるものよ丘の曼珠沙華長谷川かな女 そのとおりです、と誰しも肯いて読みすごしてしまいそうな句だが、さすがはかな女で、「丘」を効かせ、句の奥行をつくっている。曼珠沙華は堤や路傍、墓地といった比較的、人目につきやすいところに咲く。それなのにわざわざ丘とその場所を特定しているからには、咲いている場所が高いところにある不安定感をともなう崇高感といったものを出したかったのだろう。

吾がために死なむと云ひし男らのみなながらへぬおもしろきかな原阿佐緒 歌意は明瞭である。君のためだったら命を捧げてもいい、なんてうそぶいていた男たちが皆、ぴんぴん生き長らえている、なんて面白いことでしょう、というのだが、この「おもしろきかな」には男たちを嘲笑うだけでなく、自嘲でもある。つまり男たちに死を覚悟させるような恋を経験できなかった自分をも嘲笑っているのである。

女とは淡き仮名書きの一行のながるるごとく男捉へつ岡井隆 仮名書きは女手といわれたように、その担い手が女性であることによって、流麗、精緻なその書体も完成されていった。まさにそれは女体そのものの形象化であるかのように、男の心を捉える美しさをもったもの。もちろん具体的には相聞の場などで取り交わされた恋歌のことと解してもいいだろう。

2003-11-25 公開