よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.29道
道は人間の移動のためのものだから、すでに二足歩行を始めた時点から、準備されていたといえる。獣道というものもあるから、人類が動物としてのスタートをきった時点から、というのがより正確かもしれない。しかし「朝〈あした〉に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(『論語』)の「道」は、明らかにその道とは違う。人としての生き方、道理、真理といった意味に転じた道である。ここからは茶道、剣道、書道などの「道」を生んでいく。この道には、それぞれの技芸において、それを律する独自の法による自己鍛錬によって、より高い境地に達することができ、到達点よりもそれへ至る過程こそが大切だという考え方が基盤にある。身体的技芸だけでなく、たとえば和歌を「歌道」といったりする。それに対して、例外を省き、「俳道」という言い方は一般的ではない。ところがこの精神的な「道」を考えようとした時、まず挙げなければならないのは芭蕉である。俳諧を「風雅の道」へ高め、「只此一筋に繋がる」(『笈の小文』)決意を彼がしなければ、今日の俳句はないのだから、その意味は大きい。道は俳句にとって、人の時間的空間的移動が行なわれる場として重要なだけではないのである。
この道に寄る外はなき枯野哉 明治39年34歳の時の句で、まだ新傾向俳句を唱える以前の作品。意志的で格調高く、ゆるぎない古格を保っているが、後の虚子と対立した孤高の歩みを予感させるような内容でもある。それはもちろん芭蕉の「此道や行く人なしに秋の暮」「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」が響いているからである。
よい道がよい建物へ、焼場です なんだか妙に立派な道が通っている。少し行くと、こんどは立派な建物が現れたと思ったら、なんと焼場だったというわけである。道はいろんな意外なところへも連れて行ってくれる。漂泊俳人 山頭火には道への深い思いのこもった作品が多い。「まっすぐな道でさみしい」「迷うた道でそのまま泊る」「わかれてきた道がまっすぐ」「しぐるるや道は一すぢ」「だれにも逢はない道がでこぼこ」「この道しかない春の雪ふる」等々。
行く道のままに高きに登りけり 現代俳句の最も保守的な部分を体現した俳人らしい屈託のないつくりだが、人為の虚しさというものをそこはかとなく伝える。「蜩〈ひぐらし〉やいつしか園の径ならず」という似た趣向の作品もある。
道に直ぐ
わが影や冬の夜道を面伏せて 青峰は新興俳句弾圧事件の犠牲者の一人。留置所で喀血。保釈後、そのまま病没した。「わが影」とあえて言っているところなどには、そんな数年後のわが身の悲境を予感しているようでもある。「芋虫の感触脳がむずがゆい」といった先駆的な作品も残しているが、もともとはホトトギスの出身で、虚子の信頼もあつかった。
峠路を行かばそのまま雪をんな 若くして脊椎カリエスにかかり、24年におよぶ療養生活を余儀なくされたという背景が重要である。つまり病床に縛りつけられ、行動の自由を奪われるところからくる動きへの渇望。たぎるようなその思いが、この句の底流に流れているように思う。「冬の日や臥して見あぐる琴の丈」「マラソンの余す白息働きたし」には、さらにそれが直接的に現れている。
金魚玉とり落しなば鋪道の花 第一句集の名もこの句から取られ『舗道の花』と題された。「多作多捨」を唱えた作者らしい一瞬をすばやく切り取ったシャープな句である。これ以前に「蛍とぶ下には硬き鋪道かな」という句をつくっている。
戦前の一本道が現るる 句意は明解。まっすぐに読者の胸に飛び込んでくるような勢いがある。しかし通りすぎてしまう勢いではない。読者の胸にいつまでもとどまり、圧迫し続けるような重さをもつ勢い。それは「戦前」の二字があるからだ。戦前も戦後も、結局は一本の道でつながっているのではないか、なにも変わってはいないのではないかという問いかけである。
夏草やなくなりそうに道つづく 茫茫と生い茂った夏草が覆いかぶさり、それでなくとも人が通るだけの狭い野道が、ますます狭くなっている。それでもなお消え入りそうにではあるが、道は続いているというのだ。自然の中での、人の頼りない細々とした営みではあるが、続けていくしかないのである。口語調の「なくなりそうに」が効果的。
父恋へば補陀落の径月の道 補陀落とは観音が住むというインド南端の伝説の山。観音信仰では、この補陀落山に往生することを願う。補陀落浄土をめざして単身、海を渡るのが補陀落渡海で、父の源義は補陀落渡海を生涯かけて研究した。したがってこれは父恋いであり、また鎮魂の句ということになる。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 「たまきわる」は「いのち」「うつつ」「よ」などにかかる枕詞だが、漢字表記では「魂極る」で、この歌では、この漢字での意味、つまり「命のある限り」という意味で受けとった方がいいだろう。夕陽に照らされ、遥かに続くこの道こそ、自分が生きていく道、自分の命そのものだといっているのである。芭蕉の「あかあかと日は難面〈つれなく〉も秋の風」を意識していたのだろうか。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 秋の七草の一つである葛の花は、美しい紅紫色の総状の花だが、大きな葉に隠れがちなので、山道に踏まれることもあるだろう。そんな葛の花の鮮烈な色が作者の眼前に突如、現れたのである。自分よりも先にこの山道を分け入って行った人がいるんだという驚きにも似た感動を、その踏みしだかれた葛の花の色が増幅する。
2004-08-16 公開