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飛鳥寺(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。法興寺,本元興寺ともいう。蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な寺院で,百済から招いた工人らが参画して,596年(推古4)ほぼ造営を終え,606年には仏師鞍作止利が作った本尊の丈六釈迦如来像が安置されている。古都飛鳥の地に〈大寺〉と
はに‐わ 【埴輪】(日本国語大辞典)
古墳の墳丘上に立て並べた素焼の土製品。円筒埴輪・形象埴輪に二大別され、形象埴輪は家形・器具器材・動物・人物など多様である。古墳に供えた器台、壺などが儀器化し、発生したという説が有力。
ふん‐ぼ 【墳墓】(日本国語大辞典)
(「墳」は盛り土のある墓、「墓」は盛り土のない墓所の意)(1)死体や遺骨・遺品などを埋めて供養する所。木や石などを立て、墓じるしとしたもの。また、日本では古墳、飛鳥・奈良時代の火葬墓、中国では墳丘をさす。はか。つか。ぼち。
談山神社(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
[現]桜井市大字多武峰 多武峯の御破裂山南腹に鎮座。藤原鎌足を祀る旧別格官幣社。鎌足の冠位にちなんで大織冠社・多武峯社ともいい、江戸時代までは多武峯寺と一体のものであった。多武峯寺の中核である妙楽寺と聖霊院の対立を防ぐために
禅林寺(永観堂)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
京都市左京区永観堂町にある。浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号は聖衆来迎山。一般に永観堂と呼ばれている。空海の高弟真紹が仁寿三年(八五三)藤原関雄の山荘を買い大日如来などの五像を安置し、貞観五年(八六三)定額寺に預かり、禅林寺の名を
橿原神宮(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県橿原市に鎮座。神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命をまつる。社地は畝傍山の東南にあたり,神武天皇が宮居を営んだ橿原宮の跡という。当地はすでに元禄年間(1688-1704)に神武天皇の神廟を営もうとする動きがあったが,1888年橿原宮跡の考証ののち,民間より神社建設の請願があり
仁徳陵(改訂新版 世界大百科事典・現代用語の基礎知識)
大阪府堺市堺区大仙町に所在する大型前方後円墳。全長486m,後円部径249m,後円部高35m,前方部幅305m,前方部高34mを測る。外周に三重の濠がめぐり,葺石(ふきいし)をそなえ,墳丘および中堤に埴輪を樹立する。梅原末治の算出によれば
浅草神社(日本歴史地名大系・国史大辞典)
[現]台東区浅草二丁目浅草寺境内東側にある。旧郷社。祭神は隅田川から観音像(のち浅草寺本尊)を引上げたという檜前浜成命・檜前竹成命とそれを安置したという土師真中和(土師直中知)で、大国主命・東照宮などを合祀する。江戸時代末までは三社権現と称された
阿蘇神社(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
[現]一の宮町宮地宮地(みやじ)市街地の西方にあり、約一万坪の境内を有する。祭神は健磐龍命を主神とする阿蘇十二神。古代は式内社として、中世は肥後国の一宮として、近代は官幣大社としての伝統をもつ九州の名社。。現社殿は南面する三本殿・拝殿・楼門・回廊
阿仁鉱山(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
阿仁金・銀・銅山の総称。北流する阿仁川上流の両岸、標高五六二メートルの九両山の南・北・西麓、および標高七一〇メートルの芝森南・西麓一帯に分布する。板木沢・向・七十枚・小沢・萱草・二ノ又・真木沢・三枚・一ノ又・大沢・天狗平・黒滝・糠内・深沢の各鉱山を含む
鹿鳴館(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
明治初期の国際的社交場として建てられた洋館。東京府麹町(こうじまち)区内幸(うちさいわい)町山下門の元薩摩(さつま)藩装束(しょうぞく)屋敷跡(千代田区内幸(うちさいわい)町、帝国ホテルの隣地)にあった。1879年(明治12)外務卿(きょう)に就任して
明石城下(日本歴史地名大系)
明石川河口に近い東岸の洪積台地(通称人丸山)上に築かれた明石城を扇の要とし、その南方に広がる明石海峡に至る東西約一二〇〇メートル・南北約七〇〇メートルの地域に開かれた城下町。〔城下町の成立と発展〕元和三年(一六一七)明石に入部して
富岡製糸場(国史大辞典・世界大百科事典)
明治初年に上野国富岡に設立された官営模範製糸場で、のち民間へ払い下げられた。政府は横浜の有力生糸輸出商社エッシュ=リリアンタル商会からの器械製糸場設立の申請を退けつつ、明治三年(一八七〇)二月にみずから模範製糸場を設立する方針を定め
京都御所(日本歴史地名大系・国史大辞典)
[現]上京区京都御苑広義には大宮御所(なかに仙洞御所がある)をも含み、狭義には京都御所のみをいう。里内裏であった土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)邸が、鎌倉最末期以来皇居とされていたものの後身で、仙洞御所と大宮御所は江戸初期に設けられた
松江城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
松江市殿町に中心部のある城。別称千鳥城。平山城。主要部のある丘陵はもと極楽寺山または亀田山と呼ばれ、戦国時代には富田城主尼子氏の出城である末次城があった。天文十二年(一五四三)に大内義隆が出雲に侵入した際、大内軍の一隊が当城を占拠し富田城攻撃拠点
松山城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
(一)松山市丸之内および堀之内に中心部のある城。平山城。松山平野の中央に位置する勝山(標高一三二メートル)は室町時代ごろまでは味酒山と呼ばれた。南北朝時代に伊予の南朝方が、北朝方で湯築城を居城としていた河野氏を攻略するに際して
渡月橋(日本歴史地名大系)
桂川(大堰川・保津川)に架かる橋で、嵐(らん)橋ともいう。承和三年(八三六)に僧道昌によって大堰(おおい)川の修築が行われたが(弘法大師弟子伝)、その時架設されたのに始まるともいう。橋の南に法輪寺があったため法輪寺橋・法輪橋の名もあり
札幌農学校(日本歴史地名大系)
明治九年(一八七六)に札幌学校が改称して成立した札幌農学校は日本初の高等農業専門学校。現北海道大学の前身にあたり、明治五年に東京芝増上寺本坊内に開設された開拓使仮学校を嚆矢とする。明治五年一月開拓次官の黒田清隆は、北海道に農業・工業などの学校を
釜石製鉄所(日本歴史地名大系)
[現]釜石市鈴子町西に食込む釜石湾奥の西岸に位置する。明治七年(一八七四)二月、工部省工部卿伊藤博文の「陸中国閉伊郡に熔鉱炉を設置」の発議に基づき、同年五月工部省鉱山寮釜石支庁が置かれ、橋野・大橋・栗林、佐比内(現遠野市)の鉱山が官営に移管、翌八年一月工場建設に着手した
岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
日立鉱山(国史大辞典・世界大百科事典)
茨城県日立市にあった近代有数の銅山。天正年間(一五七三―九二)の発見と伝えられるが、文久・元治の交、常陸の人大塚源吾衛門が水戸藩の許可を得て三年間稼行し休業したのち、明治六年(一八七三)以降、数人の鉱業人を経て同三十四年末に赤沢鉱業合資会社の経営に
弥生土器(世界大百科事典)
弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに
楯築遺跡(世界大百科事典・日本歴史地名大系)
岡山県倉敷市矢部にある楯築神社境内の弥生時代墳墓遺跡。神社御神体の通称〈亀石〉は特殊な弧状帯文様をもつ石造品として,頂部に立つ巨石群とともに著名であるが,最近になって神社が所在する円丘全体が弥生時代の墳丘墓であることが判明し,1976年,78年
倭奴国王印(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代の天明四年(一七八四)、筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)南岸の叶の崎(かなのさき、福岡市東区)から出土した「漢委奴国王」の印文をもった純金の印。その形は方形で、方平均二・三四七センチ、高〇・八八七センチの小さい印台の上に、蛇形ともみえる鈕が
佐渡金銀山(国史大辞典・日本歴史地名大系)
[現]相川町宗徳町町部中心街約一・五キロ東方の標高一一〇メートルの山中の宗徳(そうとく)町にある。町北部へ注ぐ北沢(きたざわ)川上流の右(みぎ)沢と左沢の渓谷の間に突出た台地上で、東は白子(しらこ)嶺と青野(あおの)嶺、南は中山(なかやま)嶺
佐渡金山(世界大百科事典)
新潟県佐渡郡(佐渡国)相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-96)から慶長(1596-1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
神社建築(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬(ひもろぎ)として崇(あが)め、また祖先の霊を祀(まつ)るために、伝来の宝物を御霊代(みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着し
寺院建築(国史大辞典・世界大百科事典)
仏教寺院に属する建築。ただし寺院内にあっても、鎮守とその付属建物は神社建築として扱い、書院・客殿などの居住用建物は住宅史で取り上げている。しかし、居住用建物でも、僧房・庫裏など仏教寺院独特のものは含む。仏教は六世紀の中ごろ伝来し、大陸の建築様式を伝え
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
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