NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史

「歴史」カテゴリの記事一覧

オンライン辞書・事典サービス「ジャパンナレッジ」の「歴史」のカテゴリ別サンプルページです。
ジャパンナレッジは日本最大級のオンライン辞書・事典サービスです。
「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。


北条時政(世界大百科事典・日本大百科全書)
鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現静岡県伊豆の国市,旧韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を
北条義時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一六三-一二二四 鎌倉時代前期の第二代執権(一二〇五―二四)。相模守・陸奥守・右京権大夫を歴任、また駿河・伊豆・若狭・越後・大隅・信濃の守護となる。長寛元年(一一六三)北条時政の第二子として生まれる。母は伊東入道女。幼名は江馬四郎・江馬小四郎
源頼家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一八二-一二〇四 鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は
源義仲(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一五四-八四 平安時代後期の武将。木曾義仲・木曾冠者・旭将軍と称される。久寿元年(一一五四)に生まれる。父は春宮帯刀長源義賢、母は遊女と伝える。寿永二年(一一八三)の入洛以前は根本資料を欠き、延慶本・盛衰記・長門本など語り系の『平家物語』によらざるを
大庭景親(世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書)
平安時代末期の武士。通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家に臣従した。1180年5月の源頼政挙兵時には京都にあって平家軍に属し,東下後の同年8月源頼朝が挙兵すると,平家方の総大将として石橋山でこれを破った
梶原景時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一二〇〇 鎌倉時代前期の武将。相模国住人五郎景清の子。通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義仲追討をはじめ、平家追討に功があった。文治元年(一一八五)屋島攻撃の際、源義経と逆櫓の策を争い
日中戦争(世界大百科事典)
1937年(昭和12)から45年までおもに中国大陸で戦われた日本と中国との全面戦争で,太平洋戦争が起こるとその一環となった。その結果,明治以来の日本の植民地帝国が崩壊したばかりでなく,東アジアの情勢も大きな変革をとげた。前史日本は1931年以来武力に
神社建築(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬(ひもろぎ)として崇(あが)め、また祖先の霊を祀(まつ)るために、伝来の宝物を御霊代(みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着し
寺院建築(国史大辞典・世界大百科事典)
仏教寺院に属する建築。ただし寺院内にあっても、鎮守とその付属建物は神社建築として扱い、書院・客殿などの居住用建物は住宅史で取り上げている。しかし、居住用建物でも、僧房・庫裏など仏教寺院独特のものは含む。仏教は六世紀の中ごろ伝来し、大陸の建築様式を伝え
大友宗麟(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三〇-八七戦国時代の武将。豊後・筑後・肥後・筑前・豊前・肥前六ヵ国守護。享禄三年(一五三〇)生まる。大友氏二十代義鑑の長子。幼名塩法師丸、のち五郎また新太郎。左衛門督、従四位下。諱は義鎮(よししげ)。入道宗麟・円斎・三非斎。キリスト教名
伴天連追放令(世界大百科事典)
キリシタン宣教師の国外追放を規定した法令のこと。(1)1587年(天正15)豊臣秀吉が九州平定後,筑前筥崎(はこざき)で発令した6月19日付け〈定〉5ヵ条。要旨は,日本は神国・仏教国であり,邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから,宣教師は
古代オリエント文明(日本大百科全書)
紀元前3200年ごろから紀元前4世紀後半のアレクサンドロス大王による統一まで、およそ3000年間、西アジア、エジプトに栄えた世界最古の文明。[高橋正男]▲古代オリエント学の誕生現在のイラン、イラク、シリア、トルコ、レバノン、ヨルダン、イスラエル
アレクサンドロス(日本大百科全書・岩波 世界人名大辞典・デジタル版 集英社世界文学大事典)
マケドニア王(在位前336~前323)。「大王」(マグヌスMagnus)とよばれたのは、ローマ共和政末期の軍人や政治家が彼らの業績の大きさをアレクサンドロスのそれに対比させたことに始まる。父はフィリッポス2世、母はマケドニアの西エペイロスの王族の娘
比企能員(日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝(よりとも)の乳母(うば)であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵(むさし)国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも
三善康信(日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉幕府初代問注所執事(もんちゅうじょしつじ)。法名善信(ぜんしん)。三善氏は明法(みょうぼう)・算道(さんどう)をもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)の妹であった関係で、伊豆に配流されていた頼朝に京都の情報を
三浦義澄(日本大百科全書・国史大辞典)
鎌倉初期の武将。義明(よしあき)の子。幼名荒次郎。三浦介(すけ)。相模(さがみ)国守護。1180年(治承4)畠山重忠(はたけやましげただ)・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長らに攻められて本拠地三浦の衣笠(きぬがさ)城(神奈川県横須賀市)が落城し
藤原秀衡(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
古代末期東北の武将。清衡(きよひら)の孫、基衡(もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉(ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
菅原道真(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
平安前期の律令(りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善(これよし)の子で母は伴(とも)氏。本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。従(じゅ)二位右大臣に至る。承和(じょうわ)12年6月25日、父祖三代の
倭の五王(日本大百科全書・世界大百科事典)
中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書(そうじょ)』と『南史』では讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)、『梁書(りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが
壬申の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天智天皇の死の翌年の六七二年に起った皇位継承をめぐる大規模な内乱。壬申の年にあたるので壬申の乱という。なお、『日本書紀』は弘文天皇(大友皇子)の即位を認めず、この年を天武天皇元年とする。乱の直接の原因は皇位継承の争いである。天智天皇は、大化改新を断行
藤原京(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
古代宮都の一つ。持統天皇八年(六九四)から和銅三年(七一〇)まで、十六年間にわたり営まれた持統・文武・元明三代の宮都。遺跡は奈良県橿原市(高殿町ほか)にある。それまでの宮室が、天皇一代限りのものであったのに対し、藤原宮に至り、計画的で整然たる都市を
応天門の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代前期、応天門の炎上をめぐって起きた政治的疑獄事件。貞観八年(八六六)閏三月十日の夜、朝堂院の正門、応天門が焼失した。はじめ左大臣源信(みなもとのまこと)に放火の嫌疑がかけられたが、八月三日に至り、左京の人、備中権史生の大宅鷹取が、大納言
藤原基経(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安前期の官僚。藤原長良(ながら)(良房(よしふさ)の兄)の第3子で、母は藤原乙春(おとはる)。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた。851年(仁寿1)に16歳で文徳
平将門(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-九四〇平安時代中期の武者。桓武平氏高望の孫。父は良持。系図には父を良将、母を犬養春枝の女とするものがあり、その生年を延喜三年(九〇三)と伝えるものもある。将門は下総北部の豊田・猿島地方(茨城県西部)を地盤としており、若いころに藤原忠平に仕えたが
承平・天慶の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
平安時代の承平・天慶年間(九三一―四七)、関東・瀬戸内海でおこった平将門・藤原純友の反乱の総称。天慶の乱ともいう。〔平将門の乱〕関東地方では、九世紀中葉以降、国司として下向した中央貴族が、在地の郡司などの豪族と婚姻関係を結び、土着して勢力をふるう傾向
高松塚古墳(国史大辞典・日本歴史地名大系)
飛鳥(あすか)の古墳を代表する7世紀末~8世紀初頭の壁画古墳。特別史跡。奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村平田の丘陵南斜面に築かれた直径約20メートル、高さ約5メートルの円墳。埋葬の施設は墳丘中央で南に開口する凝灰岩製の石棺式石室。内法
壇ノ浦の戦(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1185年(文治1)下関(しものせき)市東方の壇之浦で行われた源平最後の海戦。この年2月屋島(やしま)の戦いに敗れた平氏の総帥宗盛(むねもり)らは、長門彦島(ながとひこしま)(下関市)に拠(よ)る平知盛(とももり)の軍と合体、九州の源範頼(のりより)
保元の乱(世界大百科事典・日本国語大辞典)
1156年(保元1)に起こった京都の争乱。〈ほげんのらん〉ともいう。皇室・摂関家内の勢力争いに源平2氏の武力が介入して勃発した。白河院政開始(1086)後,朝廷には〈治天の君(ちてんのきみ)〉=院と天皇と二つの権力が競合併存することとなり,それにとも
平治の乱(世界大百科事典・日本国語大辞典)
1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信
ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のオンライン辞書・事典・叢書サービス。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
利用料金・収録辞事典・会員登録はこちら