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蝉丸(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・国史大辞典)
虚構の人名。説話では、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子で、盲目のため逢坂山へ遺棄された琵琶の名手と伝える。『後撰集』(巻十五)に、「逢坂の関に庵室を造りて住み侍りけるに、行きかふ人を見て」の詞書のもとに、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂
川路聖謨(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸末期の政治家。幕府の徒士 (かち)内藤吉兵衛 (きちべえ)の子として豊後 (ぶんご)国(大分県)日田に生まれ、小普請 (こぶしん)組川路三左衛門光房 (さんざえもんみつふさ)の養子となる。通称弥吉 (やきち)、のち三左衛門。18歳のと
徳川家茂(日本大百科全書)
江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順 (なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化 (こうか)3年閏 (うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福 (よしとみ)と称す。12代藩主斉彊 (なりかつ)(斉順の弟)の養
尊王攘夷運動(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸幕府の外交政策と専制体制を批判、反対した幕末の政治運動。[遠山茂樹]▲本来の性格身分制度の最頂点に位する天皇の伝統的権威の尊重を説く尊王思想、および自国を道徳文化の優れた中華 (ちゅうか)として尊び、外国とくに東洋文化と異質の文化をもつ欧米諸国
松平慶永(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末期の越前国 (えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽 (しゅんがく)が通称となる。田安 (たやす)家徳川斉匡 (とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった
赤穂浪士(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一七〇一年(元禄一四)三月一四日に、江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(五万三五〇〇石)浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家肝煎(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件があった。この日は幕府の年賀に対する答礼
五代友厚(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
実業家、政商。薩摩(さつま)藩士で儒者兼町奉行(まちぶぎょう)の五代直左衛門秀堯(ひでたか)の次男として生まれる。幼名を徳助、才助といい、松蔭と号す。長崎で航海、砲術、測量などの技術を習得、薩英戦争(1863)に参加し捕虜となるが脱出した
渋沢喜作(国史大辞典・日本人名大辞典)
一八三八-一九一二明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄で、栄一より二歳年長。天保九年(一八三八)六月十日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に渋沢文平の子として生まれる。文久三年(一八六三)栄一らとともに攘夷を決行しようとしたが中止した。翌元治元年
大正時代(世界大百科事典・国史大辞典)
一般的には大正天皇の在位期間(1912-26)をいうが,歴史学的にいえば,藩閥官僚政治を批判する日露戦争講和反対の全国的民衆運動の発生した1905年から,第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣の政治諸改革が行われ,政党政治体制の確立した1925年ま
塚原卜伝(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
室町末期の剣豪で、新当(しんとう)流(鹿島(かしま)新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)の祖。卜伝の伝記は巷説(こうせつ)が多く明らかではないが、常陸大掾(ひたちだいじょう)鹿島家の四宿老(しゅくろう)の一つで、鹿島社(鹿島神宮)の祠官(しか
鼠小僧次郎吉(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
江戸の著名な盗賊。《視聴草》によれば,1823年(文政6)以来10年間に99ヵ所の武家屋敷へ122度も忍びこみ,金3000両余を盗む。盗金は酒食や遊興,ばくちなどに費やした。32年8月獄門。36歳とも37歳ともいわれた。のち小説,講談,戯曲に義賊とし
山内豊信(日本大百科全書・世界大百科事典)
幕末期の土佐藩主。文政(ぶんせい)10年10月9日生まれ。分家山内豊著(とよあきら)の長男、宗家豊惇(とよあつ)の養子。1848年(嘉永1)15代目の藩主となり、隠居後、容堂(ようどう)と号す。分家出身のため苦労したが、ペリー来航後の対外的危機の緊迫
小栗忠順(日本大百科全書・世界大百科事典)
幕末の幕臣。慶応(けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守(ぶんごのかみ)、さらに上野介(こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)には日米修好通
ポツダム宣言(日本大百科全書・世界大百科事典)
1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談で協議されたうえ、同年7月26日、米英中三国政府首脳の連名で日本に対して発せられた降伏勧告の宣言。この宣言は全部で13項からなり、日本がこのまま戦争を継続すれば日本の国土は完全に荒廃してしまうこと(3項
水戸黄門(日本架空伝承人名事典)
徳川光圀。江戸中期の大名。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として水戸に生まれる。母は頼房の側室谷久子。家臣の屋敷で養われた。幼名は長丸、のち千代松、九歳で元服のとき三代将軍徳川家光の一字を与えられて光国と名のる。のち五〇歳代に国を圀に改めた。字ははじめ
弁慶(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
源義経の郎従。武蔵坊と称する。没年は衣川の合戦で義経に殉じたとする伝承にもとづいて一一八九年(文治五)とされる。『吾妻鏡』や『平家物語』にその名が見えるので、実在の人物と考えられているが、詳しくは不明。その説話や伝承は、『義経記』をはじめ室町時代の
小野小町(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代前期の女流歌人。生没年不詳。六歌仙、三十六歌仙の一人。出羽国の郡司良真の女。篁(たかむら)の孫、美材(よしき)、好古(よしふる)らの従妹とされる。系図については諸説があるが、確かなことは不明。小町の名についても、宮中の局町に住んだことによると
徳川家綱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一六四一-八〇江戸幕府第四代将軍。一六五一―八〇在職。三代将軍家光の長子。寛永十八年(一六四一)八月三日生まれる。生母は増山氏おらく(お楽)の方。幼名竹千代。正保元年(一六四四)十一月家綱と名のる。慶安四年(一六五一)四月二十日父家光の死により
徳川家宣(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一六六二-一七一二江戸幕府第六代将軍。一七〇九―一二在職。甲府宰相徳川綱重の長子。生母は田中氏(於保良、長昌院)。寛文二年(一六六二)四月二十五日、江戸谷中千駄木邸に生まれる。幼名虎松。綱重が正室を迎える前の誕生であったため、憚って家臣の新見正信の子
徳川家継(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七〇九-一六江戸幕府第七代将軍。一七一二―一六在職。六代将軍家宣の第三子。生母は勝田氏(於喜世、月光院)。宝永六年(一七〇九)七月三日、江戸城内山里の別殿で誕生。幼名世良田鍋松。世良田の称は徳川氏発祥の地、上野国新田郡世良田郷(群馬県新田郡尾島町)
徳川家治(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府10代将軍(在位1760~86)。幼名竹千代。9代将軍家重(いえしげ)の長子。母は梅渓(うめたに)氏お幸(こう)。元文(げんぶん)2年5月22日生まれ。1760年(宝暦10)9月に将軍就任。祖父吉宗(よしむね)は家治の幼少時には、不肖の家重に
徳川家斉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七七三-一八四一江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方(岩本氏、慈徳院)。徳川豊千代と称したが、天明元年(一七八一)閏五月、十代将軍家治の世子と
徳川家慶(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七九三-一八五三江戸幕府第十二代将軍。一八三七―五三在職。寛政五年(一七九三)五月十四日生まれる。十一代将軍家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏、香琳院)。幼名松平敏次郎。同八年十二月家慶と称す。翌九年三月元服して従二位、大納言に任ず。文化六年
徳川家定(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下(せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘(あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4
戦国時代(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)
江戸時代(日本大百科全書・世界大百科事典)
▲範囲と概観厳密には、江戸に幕府が開かれた1603年3月24日(慶長8年2月12日=旧暦)から、1869年4月5日(明治2年2月24日=旧暦)事実上の東京遷都が行われた日までの266年間をさすと考えられるが、一般には1600年の関ヶ原の戦い以降、
明治時代(国史大辞典・世界大百科事典)
明治元年(一八六八)から同四十五年七月三十日、明治天皇の死により大正と改元されるまでの四十四年間余りの時期をいう。慶応四年(一八六八)が改元で明治元年となったのは九月八日であったが、その年の正月一日以後を明治時代に含めて呼ぶのが普通である。明治天皇の
昭和時代(世界大百科事典・国史大辞典)
昭和の元号を冠した時代(1926-89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな
任那(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
朝鮮半島南部の洛東江中・下流域から蟾津江流域に及ぶ古代小国家群の総称。慶尚北道西南部をふくみ、現在の慶尚南道より全羅南道にわたる。『日本書紀』では、「比自・南加羅・・安羅・多羅・卓淳・加羅」の七国(神功紀)、あるいは「加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・
磐井の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と己呑(とくことん)を復興しようとした時、かねて反乱を計画して隙をうかがっていた筑紫国造磐井は、毛野臣の軍を
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