コトバJapan! 池仁太 の 記事一覧

池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。


 「娘さん、しっぽりしてきよったなぁ、最近。うちのキョロはほんま、なに考えてんのやら……はずかしいわぁ」。

 「しっぽり」は、大人びていたり、落ち着いていたりする様子を表す言葉である。もともとは、「しっとりと十分に濡れるさま」や「しめやかなさま」、あるいは「男女間の情愛のこまやかなさま、親密なさま」(『日本国語大辞典』)といった意味でも使われてきた。京都や奈良、和歌山などではニュアンスが若干変化した他の意味もあり、「熱心な」という意味で、「しっぽりきばってもろて、わるいなぁ」というような使い方もされていたそうである。なお、「キョロ」というのは、目をキョロキョロしているというところから「落ち着きのない人」という意味で、かわいらしさを加味しつつ使われることが多い。

 「しっぽり」の「大人びたしっかり感」がいきすぎて、厳しさが加わるほどになると、「しかつい」という形容になる。「おたく、この頃しかついこと言わはりますな」などという感じ。ちょっと皮肉交じりに注意を促すわけだ。また、「しっぽり」の対義として使われる言葉は、せかせかして落ち着かないという意味の「いらち」であろう。「ほんまにいらちやし、忘れもんせんといてな」という風に使う。標準語の「せっかち」と同じような使い方だろう。


峰床山(左京区)にて。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 「汁粉」とは「汁粉餅」の略で、小豆餡の汁に餅を入れた菓子である。京都で「汁粉」というと、漉し餡を使ったものという意味であり、粒餡のいわゆる田舎汁粉のことは「善哉(ぜんざい)」と呼ばなければいけない。一方、関東で「善哉」といったら、粟や白い餅に、ぼってりと汁気の少ない餡をかけたものだと思うのだが、これを京都では「亀山」と呼んでいる。

 さて、このおいしい「汁粉」を、行楽や旅の道中に携帯し、どこでも食べてしまおうと考え出されたのが「懐中汁粉」である。一説に、日本最古のインスタント食品ともいわれている。

 「懐中汁粉」は最中のような感じで、餡の粉が外皮に包まれており、これを椀に入れ、熱いお湯を注いで混ぜるだけでできあがる。外皮は、薄い餅を焼いた皮や、最中と同じ麩焼きの皮でつくられている。中の餡は晒し餡というものだ。これは小豆をやわらかに煮て、外皮を取り除きながら濾した漉し餡を、加熱乾燥して粉末にしたものだ。砂糖や塩、澱粉などで調合され、さらに椀の中で溶けて浮かび上がってくる麩や求肥(ぎゅうひ)、小花の塩漬けなどが詰め込まれている。餡の味ばかりか、具材の組み合わせや色合いなどにも、和菓子店のこだわりが見られる一品なのである。京都では、老舗・末富(すえとみ)のシンプルな光悦善哉、甘泉堂(かんせいどう)の蘭の塩漬けが入った四君子(しくんし)、京華堂利保(きょうかどう・としやす)の筍や松茸を模した懐中汁粉などが有名で、ほかにもかなりの種類があると思われる。

 余談であるが、『東洋文庫』の『明治東京逸聞史』の中に、1911(明治44)年『中央公論』に掲載された懐中汁粉の話を発見した。

 「なんでも喰べる物がないから、お茶屋で懐中汁粉を買って、お湯で解いて飲んだの。そしたら日の丸の旗が出てよ。旅順口なんてかいてあるの。よッぽど古い懐中汁粉なのねえ。」

 文章中の「旅順口」とは、大連市(中国)市轄区のことで、話は1904(明治37)年に旅順口総攻撃で火ぶたを切った日露戦争を題材にしている。明治期の日本では、懐中汁粉が全国的なブームになったと聞いたことがある。この記事は、そのような時勢を背景にしたものなのだろう。


右側は、銀閣寺付近の日栄軒本舗(左京区)のもの。左側は京華堂利保(左京区)の懐中しるこ『竹の露』で、松茸と筍の形をしている。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 蘇鉄は世界の熱帯や亜熱帯地域に自生するソテツ科の植物。「生きた化石」と呼ばれ、原始的なシダ植物の形態を残した起源の極めて古い植物である。日本では九州南部より以南の地域に一種だけが自生するとされ、関東より南の地域では、路地植えの庭園樹木として古くから親しまれてきた歴史がある。京都にも歴史的な日本庭園や京町家の庭木として数多くみられる。有名な所では京都御所や仙洞御所をはじめ、二条城、桂離宮、西本願寺の大書院庭園などの蘇鉄が有名である。それにしても時間をかけて生い育つ蘇鉄は、高さ2メートルから5メートル、幹の太さは50センチあまりになり、1メートル近くもある葉が生い茂る。その姿は、日本の庭園ではかなり異様な存在感を放つのだが、どのような理由で珍重されてきたのだろう。

 京都で初めて文献に「蘇鉄」の名称が登場するのは、室町時代の1488(長享2)年とされている。当時は中国経由の行路に加え、琉球を窓口にした東南アジアの交易ルートが開かれた時期だ。南方の国々のさまざまな産物と一緒に、九州や瀬戸内を通り、蘇鉄がはるばる京都までやってきたと考えられる。

 それほどの道のりを経ても輸入された理由は、一般的な庭木と明らかに異なる、その樹形のもっている異国情緒のゆえである。その姿は庭石として珍奇な色や形、巨石が喜ばれたことと同じように、権力を示す格好の材料として使われてきた。室町期以降より江戸期に至っても、そのような風潮は変わりなく続き、1602(慶長7)年に徳川家康の命によって着工した二条城の庭園には、完成当初60本もの蘇鉄が庭に林立し、徳川家の権勢を讃えたと伝えられている。その後、それらの蘇鉄の一部は京都御所に移植されたり、二条城が再整備されたりと、本数を減らしていく。そして、いつしか未知なる魅力をもつ庭木として、なくてはならない存在感を有するようになった。


庭の片隅で動き出しそうな存在感の蘇鉄。


   

京都の暮らしことば / 池仁太