コトバJapan! 池仁太 の 記事一覧

池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。


 いつの時代も、故事や史実、歴史上の人物などを照らしながら、不可思議な現象がさまざまに取り沙汰されるものである。その数はなぜか七つということが多い。八坂神社やその地域にも不思議な七つの風俗や習慣が伝承され、「祇園七不思議」と呼ばれている。さて、どのようなものだろう。

1、夜啼石(よなきいし)。八坂神社にある16の摂社末社の一つ、捨山王社(すてさんのうしゃ、日吉社)の古木の根元にある石が、夜になると「しくしく」と泣くという。
2、二見岩(ふたみいわ)。伊勢神宮の天照大御神(内宮)と豊受(とようけ)大神(外宮)を祭神とする末社、大神宮社(だいじんぐうしゃ)にある岩は小さいが、地中の姿は地軸に達するほど大きいとか。
3、西楼門(にしろうもん)。四条通のどんつきとなる社の西面にあり、石段上にそびえる西楼門。ここには、雨垂れの落ちる場所に窪みができない。さらに、蜘蛛の巣が張っているところを誰も見たことがないという。
4、力水(ちからみず)大神宮社の入口にある湧き水で「祇園神水(しんすい)」とも呼ばれる。この水を飲んで隣接する美御前社(うつくしごぜんしゃ)に参拝すると美人になれるといわれる。
5、龍穴(りゅうけつ)。八坂神社本殿の下には大きな井戸があり、そこに龍が棲んでいて、龍宮に通じているという。また一説には、神泉苑や東寺にも地下でつながっているという。
6、忠盛灯籠(ただもりとうろう)。八坂神社本殿の東側にある石灯籠のこと。『平家物語』巻六によれば、五月雨の夜、祇園女御のもとへ向かう白河法皇が、石灯籠付近で鬼を見たそうだ。そのとき、法皇はお供の平清盛の父、忠盛に鬼を討ち取るよう命じるが、忠盛は、まず正体を見極めるために生け捕りを試みる。すると、実は祇園社の社僧だったという。雨具の蓑が灯籠の光で輝き、銀の針をまとっているかのように見え、鬼のように思われたのだという。忠盛の機転の良さを逸話にしたもので、現存する忠盛灯籠は、その頃からあるものだといわれている。
7、龍吼(りゅうぼえ)。本殿の東の柱に龍吼と呼ばれる彫刻がある。その下で西に向かって立ち、手を打つと、龍が鳴くといわれ、不思議な音が聞こえるそうだ。

 「七不思議」というけれど、どれも史実のような説得力があり、面白い。実は「祇園七不思議」といわれる伝説はもっとたくさんの話があり、すべて上げたら20ぐらいあるだろう。これとは別に、「永観堂七不思議」や「清水寺七不思議」などと、京都中の名所あちらこちらに七不思議が存在する。物見遊山を楽しくする話題として、昔から人から人へと伝えられてきた話なのだろう。

 


八坂神社境内(写真上)と忠盛灯籠(下)。祇園女御の邸宅は、八坂神社境内を山側の東方向へ進んだところ(現在の円山公園内)にあったそうだ。


京都の暮らしことば / 池仁太   



 毎朝のように自宅の表に出て、道路の掃き掃除をする「門掃き」という習慣が、京都人の美徳としてテレビ番組などでよく放送される。「かど」とは、玄関の周辺を表す方言で、「門掃き」は、「おはようさん」とお隣さんなどと挨拶を交わし掃き掃除をすることだ。終わったら、お天道様やお地蔵さんに手を合わせたり、暑い季節には打ち水をしたり。「早起きは三文の徳」といったところであろう。

 昔から職住一体の長屋暮らしが多い京都の町では、「門掃き」は「でっちさん」や「おなごっさん」がするものだった。それが徐々に、家人が掃除をする暮らしが当たり前になり、現代のような朝の様子があちこちで見かけられるようになっていった。むろん、そこには京都独特のルールが存在する。例えば、掃き掃除をする範囲は、家の敷地に面した道路の真ん中を少し超えた辺りまでで、両側はお隣さんとの境界を一尺(約30センチ)ほど超えた所まで。これが暗黙の決まりで、そこには「やり過ぎたらあかんけど、少しやったら」という優しさがある。一見、水くさく感じる人もいるかもしれないが、その理由は、頼まれてもいないのに、お向かいさんやお隣さんの領域に踏み込むのは「いらんお節介」ということなのだ。この微妙な距離感が、家々の隣接した狭い町で、隣近所と仲良く暮らしていくために必要な間隔で、付き合いを長続きさせる秘訣なのである。

 この「みやこぶり」というのか、京都人がもっている気質のようなものは、将来「門掃き」の習慣がなくなってしまっても、ずっと受け継がれていくのではないだろうか。

 

   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 毎年5月15日、雅びやかな行列がゆるりゆるり、新緑の清々しい賀茂川に沿うように進んでいく。この葵祭は、上賀茂(賀茂別雷、かもわけいかずち)と下鴨(賀茂御祖、かもみおや)両社の例祭である。華麗な行列の形態は、平安時代の天皇即位のとき、賀茂神社に奉仕する皇族の未婚女性が勅使らとともに社へ向かうための行列が原型になっていて、古式の祭祀のあり方を現代に伝える貴重なお祭りの一つである。

 さて、かつての葵祭は旧暦四月の吉日にあたる中の酉(とり)の日に行なわれていた。そして、前日の申の日には、代々の宮司が口伝えに伝授してきた製法でお餅がつくられ、神前に供えられていたという。その供物の名を「申餅」といった。江戸前期に刊行された『出来斎京土産(できさいきょうみやげ)』には「葵祭の申餅」と記されており、古くは京都の人たちに広く親しまれた餅菓子であったそうだ。しかし、明治初年の法令制度化(編集部注:神社の祭礼が法令で制度化されるとともに、庶民の間に伝わる習慣は廃止された)を境に、食べる習慣が途絶えてしまったという。

 この「申餅」が約140年ぶりに復元された。2010(平成22)年のことである。さらに翌年には下鴨神社の「糺(ただす)の森」に、茶店のさるやが開店し、参拝者は申餅をいつも味わうことができるようになったのである。

 宮司の口伝である「はねず色(薄い小豆色)」や「素朴な甘み」などを参考に、「申餅」を復元したのは、下鴨神社の氏子で、小豆や黒豆をいかした和菓子作りに定評のある宝泉堂(左京区)である。小豆のゆで汁で餅を搗くことで色や甘みをほのかにつけ、ゆでた小豆の豆そのままを中に入れてある。自然のままの素材や味にこだわり、試作段階では、「もっと素朴に」といくども宮司から指摘を受けながら試行錯誤を重ねたそうだ。さるやでは、葵祭のときに神職が禊ぎとして飲む黒豆茶の「まめ豆茶」とともに、申餅を味わうことができる。


申餅とまめ豆茶。申餅には小豆の色や風味が繊細に取り入れられており、一方のまめ豆茶には、飲み終えたあとに黒豆を食べられるように塩が添えられている。復元に対する菓匠の意気込みが伝わってくるようだ。


   

京都の暮らしことば / 池仁太