コトバJapan! 池仁太 の 記事一覧

池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。


 「金つば」は、厚めに四角くした餡の表面に小麦粉生地をつけ、その六面を焼いた和菓子である。餡に白豆、サツマイモ、カボチャなどを使うもの、羊羹のような寒天を混ぜたものに生地を付けたものなど、いくつかの種類がある。「金つば焼き」と呼ばれていることもある。

 江戸後期(文化年間)の随筆集『嬉遊笑覧』(喜多村信節(きたむら・のぶよ))には、「どらとは 金鼓(ごんぐ)に似たる故 鉦(どら)と名づけしは 形大きなるをいひしが、今は形小さくなりて、金鍔と呼(ぶ)なり」と記されている。当時のどら焼きは、現代のような、ふっくら焼いた皮で餡を挟んだものではなかったので、形の大小だけで「どら焼き」と「金つば」は区別していたことが読み取れる。

 そもそも金つばは、天和(1681~1684)から貞享(1684~1688)にかけ、清水(きよみず)坂周辺の茶屋で売り出されたものが原型で、これを「銀つば」と呼んでいたそうだ。当時、表面の焼皮は小麦粉ではなく、粳(うるち)米の粉でつくった生地で餡を包んで表裏を焼いたもので、形は丸く平たい姿をしていた。これが刀の鍔(つば)のようであったため、「銀つば」という名称が付けられたそうである。

 ここで「あれっ」と思われた方は、かなりの和菓子好きであろう。現在の京都にも、ほぼ同じ形状で同じ製法の名物菓子がある。おわかりだろうか、「焼き餅」である。おそらく「銀つば」とは、腰掛け茶屋で出される現在の「焼き餅」のようなものであったと考えられる。

 その後、「銀つば」は江戸へと伝えられ、いつしか「金つば」という名称に変わった。幕末に「金つば」を売る屋台から発祥した榮太樓總本鋪(東京日本橋)のホームページには、「(銀つばが)江戸に渡った折り、粳を小麦粉に変えて焼いたところ、焼色が付き『粳皮の銀色より、金色の方が上である』ということ」から、「金つば」という名称になったという理由が記されている。


金つばでも有名な中村軒(西京区)のもの。原材料は砂糖、小豆、小麦粉、寒天、餅米。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 京都タワーは、玄関口であるJR京都駅の正面にそびえ、市内を一望できる展望タワーである。建物には観光客を対象としたホテル、飲食店、土産物店などが雑居しており、新京極のように賑やかに、いろいろな土産物が所狭しと並んでいる。しかも地下には大浴場があり、旅の終わりに一風呂浴びてから帰ることができる。

 初めて見たとき、白と朱色の二色使いで、すぅと無駄のない円筒型の姿は、「和蝋燭(わろうそく)のイメージでつくられた」と教えられ、古都らしく感じたものである。実際、この説を信じている人が多いのだが、建築家の本当の意図は後から知った。設計は国重要文化財の萬代橋(ばんだいばし、新潟市)、そして日本武道館(千代田区)などを手がけ、モダン建築で知られる山田守。彼はタワー周辺の瓦屋根を波に見立て、灯台が町へ光を注ぐイメージで設計したという。確かに、灯台のようにも見える。

 郵便局舎の跡地を利用し、タワーが建造されたのは1963(昭和38)年のことだ。131メートルという高さは、建築当時の京都市の人口が131万人だったからという理由である。世界2位の東京スカイツリー(墨田区)が634メートルもある現代では、高層建築というに憚られるが、京都の高さ基準は、日本一高い木造建築の東寺五重塔の55メートルなのである。長い間この高さを「高層」の基準としてきたので、京都タワーからの眺望は、開放感があって楽しいものだ。

 建築時には、高さや美観に関する反対意見が相当すごかったそうで、京都タワーの記念誌によれば、反対派に「卑俗な観光塔」と呼ばれていたという。しかし、建造から半世紀を過ぎたいま、評判はすこぶるよい。これも歴史遺産的な地位を獲得したといえ、ランドマークとしても不可欠なものになっている。京都は大文字山(東)、愛宕山(西)、京都タワー(南)、比叡山(北)を見分けられれば、道迷いしてもGPSなしでも問題はない。

 

   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 梵鐘とは、仏寺の鐘楼に吊された鐘で、ときを知らせ、集会の合図として人を集めるために撞き鳴らされてきた。インドの仏寺で用いた打楽器と中国の銅鐘(どうしょう)が原点で、中国から朝鮮を経て日本に伝えられた。日本に現存する最古の鐘は575(太建7)年の銘がある中国の鐘(奈良国立博物館所蔵)だ。日本でつくられた和鐘で現存最古のものは、698(文武2)年に鋳造された銅製の梵鐘で、妙心寺(右京区)に所蔵されている。現在は1974(昭和49)年に複製した梵鐘が実際に用いられているが、その原型となった梵鐘は、黄鐘(おうしき)調の素晴らしい音色を響かせたといわれている。

 京都には多くの名鐘がある。なかでも有名な梵鐘は、知恩院(東山区)の大鐘だろう。高さ3.3メートル、最大直径2.7メートル、重さ70トンで、厚みが30センチもあり、戦時中には、大きすぎて運び出せずに供出を免れた、といういわれがある。除夜の鐘では、僧侶が倒れ込みながら大綱を全身で引き、その動きに合わせた16人もの僧侶が、「エーイ、ヒトツ」と掛け声をかけて小綱を引き、鐘を撞く。その様子は行く年に欠かせない風物詩になっている。

 また、「日本一重い」という方広寺(東山区)の大鐘は、「大坂冬の陣」で開戦の口実とされたいわくつきの鐘だ。前述した知恩院のものとともに「日本三大梵鐘」に数えられる(あとの一つは東大寺の鐘)。ほかにも、姿が美しいとされる日本三名鐘の一つ平等院の梵鐘や、安珍と清姫の伝説で知られる妙満寺(左京区)の梵鐘などが有名で、京都には平安期から近世初期までに鋳造された梵鐘が、おそらく32体残されているといわれる。

 さて、妙心寺所蔵の和鐘は奈良時代になろうとする時代につくられたものであるが、平安京における梵鐘の音は、物質、方位、季節、色彩との関係性の中で捉えられ、調音されていたという説がある。わかりやすくいうと、東を表す「双調(そうぢょう)」の音色は、青々とした若葉が萌える春のはつらつとした音であり、西を表す「平調(ひょうぢょう)」は、「深まる秋のもの悲しい音」といった風である。現在も遺されている梵鐘の調査で断言することは難しいそうだが、平安期には、各方面にある寺院の梵鐘がそれぞれの音高に調律され、ときを告げていた可能性があるという。

 千数百年前の大晦日には、梵鐘の音色がどのように重なり調和して、夜空に響いていたことだろう。

参考:『平安京 音の宇宙』(平凡社)中川真著



知恩院・大鐘楼の除夜の鐘。


   

京都の暮らしことば / 池仁太