昨年はNHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」が人気をよびました。ドラマのなかでは、人生を励まし、心を慰める妖怪たちが数多く登場しました。厳しい現実社会を生きていく上で、確かにこうした「わからないもの」たちの存在が必要なのかもしれません。いまや心のなかからも消えつつある妖怪たちの復活を願って、しばらく魑魅魍魎が跋扈する妖怪変化の世界をウォークしてみたいと思います。
わが国の妖怪の中で最もポピュラーな存在が河童ではないでしょうか。川や湖沼に棲んでいて、さまざまな怪奇現象を人間たちにもたらすと信じられてきました。『国史大辞典』の「実在の動物であるかのごとく信ずるものもないわけではないが実証はない」、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館刊)の「実在視するむきは昔からあったが動物学上未確認である」といった全面否定ではない記述を見ると、そこはかとないユーモアに嬉しくなります。河童に関する伝説は全国に分布しており、その呼び方も東日本ではカッパ・カワッパ、西日本ではカワタロウ・ガッパ、中国・四国のカワコ・エンコーなど実にさまざまです。
今、私たちがイメージする、子どもの背格好で背中に甲羅、頭に水の入った皿という姿が一般的になったのは、江戸時代になってからと言われています。室町時代の辞書『下学集』(文安元年(1444)自序)には、「獺老いて河童になる」という記述が残っていますが、同じ時期に妖怪をテーマに描かれた『百鬼夜行絵巻』などの絵巻や絵本には、今日の河童らしき妖怪は登場していないようです(小松和彦著『妖怪文化入門』せりか書房刊)。
近世になると百科辞書や各地の地誌、随筆などに河童についての記事が目立つようになります。江戸幕府をはじめ全国の藩が殖産興業政策を採ったことを背景に、新たな産業資源を求めてわが国独自の本草学の研究が盛んになり、未知の「生物」としての河童にも注目が集まったのです。江戸時代中期の正徳期に、大坂(大阪)の医師、寺島良安が編纂した『和漢三才図会』、下総国布川の赤松宗旦の著わした『利根川図志』などには、河童についての詳細な記述が見られ、また、その写生図も高木春山『本草図説』や昌平坂学問所儒官の古賀庵『水虎略考』などに精密に描かれています。
河童の仕業として一番怖れられていたのは、人を水中に引き込み肝や尻子玉を抜いて殺害することでした。溺死した人の肛門が開いているのは、河童に尻子玉を抜かれたからだとまことしやかに語られていました。また、相撲が好きで人に挑んで負けると祟る話、力比べに勝った漁師が魚釣りや相撲の秘伝を授かり大尽となる話、悪戯をしかけた河童の腕を切り取り、返す代わりに腕接ぎの秘薬の処方を伝授される金創医の話、好物の胡瓜を与えて田植や草取りの手伝いをさせる話など、さまざまな河童譚が語られ、『甲子夜話』や『嬉遊笑覧』(『日本随筆大成』吉川弘文館刊)などに記録されています。
このような河童伝承の中でも、水辺に繋がれていた馬を水中に引き込もうとした河童が、逆に陸に引き上げられ捕まるという「河童駒引」は、日本の民俗学の創始者、柳田国男の着目するところとなりました。少年時代に『利根川図志』所縁の布川で育った柳田が河童に興味を惹かれたのはごく自然なことだったのかもしれませんが、大正13年(1914)に刊行した『山島民譚集』の中で、「天然ノ神々ガ人間ノ便宜ニ抵抗スル能ワズシテ除ロニ其威力ヲ収メ、終ニハ腑甲斐無キ魑魅魍魎ノ分際ニ退却スルコトハ何レノ民族ニ於イテモ常ニ然リ」と、この伝承から河童水神落魄説を導きだします。これを民族学の側から補強することになったのが、石田英一郎の『河童駒引考』(昭和22年(1947)初版)でした。朝鮮半島からヨーロッパまで、ユーラシア大陸の全域に存在する河童駒引の類話から、水神と家畜をめぐる伝承の意味を考えるという壮大な構想は、今なお輝きを喪ってはいません。
こうした学問研究とは別に、現在でも河童は私たちの生活の中にさまざまな彩を与えてくれています。文学作品では芥川竜之介の『河童』、漫画では水木しげるの『河童の三平』や清水昆の『かっぱ天国』が知られています。また、テレビコマーシャルでも日本酒や蚊取用薬品などの愛嬌たっぷりのキャラクターが親しまれています。また、茨城県の牛久市には、河童の画家といわれた小川芋銭が居を構えていました。そのアトリエ「雲魚亭」は記念館となっており、そこから眺める牛久沼は河童たちが現れそうな野趣あふれる景色で、歴史散歩のコースとして人気を集めています。また、同市のシンボルマークは胡瓜を手に持って踊る河童の図柄で、毎年、夏に開かれるかっぱ祭りは数万人の人出で賑わうそうです。すっかり無害になったように見える妖怪、河童たちのエネルギーは、こんな形で生きているのかもしれません。
『本郷』No.69(2007年5月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第69回「妖怪たちの宴」(1)を元に改稿しました