古代に大らかな笑いがあったように、ダイナミックな社会変動の続いた中世の日本にも、さまざまな笑いが溢れていました。今回はそんな中世人の笑いの周辺をウォークしてみます。
まずは、鎌倉幕府の歴史を描いた『吾妻鏡』の中から、暢気な笑いのエピソードをご披露しましょう。正治2年(1200)9月、源頼朝は相模国小壺(逗子市小坪)の海岸で結城朝光らの御家人たちと笠懸を行いました。終了後、船上で慰労の酒宴を開き、座興で泳ぎ上手の家臣、朝比奈義秀にその技を見せよと命じます。海上を数丁行き来してから海中に姿を消した義秀は、やがて生きた鮫3匹を提げて浮き上がってきます。感心した源頼家がみずからの乗ってきた奥州産の名馬を給わったところ、その馬を以前から欲しがっていた兄の常盛は、弟に馬を賭けての相撲を挑みます。陸に戻り衣服を解いて立ちあいますが、その勢いは力士さながら、勝負のつかないまま北条義時が間に入って引き分けとなります。すると常盛は、裸のままその馬に乗って逃げ去ってしまい、「義秀はたいそう悔しがった。見ていたものは皆大笑いした」(五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』第6巻/吉川弘文館刊)。鎌倉時代初めの地方武士たちの邪気のない心根が垣間見える挿話です。
同じ海に関わる笑いでも、『平家物語』巻11「先帝身投」の平氏の総帥平知盛の高笑いは、滅亡する一門の悲劇を象徴する哀しみに満ちたものでした。壇ノ浦の戦も終盤、源氏のつわものたちに水手・梶取まで殺され、船を動かすこともままならない中、安徳天皇の御座船に乗り移った知盛は、「見苦しい物どもはみな海に捨てよ」と、艫舳に走り回り掃除を始めます。女房たちが「いくさはいかにや、いかに」と口々に問います。知盛は、「見たこともない東国の男たちをご覧になる時がきました」とカラカラと笑います。敗北を受け入れ、死に赴こうという武士の覚悟の笑いは、『平家物語』を彩る名場面として、今なお読者に感動を与えています(大隅和雄他著『知っておきたい日本史の名場面事典』吉川弘文館刊)。
この知盛が源義経主従一行を襲う亡霊となって登場するのが、能楽の名作「船弁慶」です。しかし、ここは「笑いの世界」です。生真面目な能ではなく、喜劇の狂言へと話を進めましょう。狂言は鎌倉時代に猿楽から分化し、滑稽な物真似や科白による笑劇として、室町時代に確立しました。そこには上流階級に対する風刺に満ちた哄笑、たくましい女房とマヌケ亭主の艶笑譚など、中世の庶民たちの生活が巧みに描かれています。狂言役者の子役デビューでよく演じられる「靱猿」は、無法な要求をした大名が子猿の可憐な舞を見ているうちに改心し、猿と一緒に踊りだし、最後は褒美を取らせてめでたしめでたしとなる舞踊劇です。狂言に登場する大名は、守護クラスの大大名ではなく、土豪と呼ぶのがふさわしいような弱小武士たちです。例えば「昆布売り」の大名などは、供も連れずに都へ上る有様です。無理やり太刀持にした昆布売りの男に逆に脅されて、「平家節」や「小唄節」などの流行り歌を歌いながら昆布を売る破目になります。しかし、調子にのった大名は歌に合わせて踊りまで始める始末。見物衆の大笑いが目に浮かびます。初めにも登場した朝比奈義秀が、勇将ぶりを発揮して鬼を蹴散らし、閻魔王に極楽までの道案内をさせるという「朝比奈」という狂言も知られています。
院政時代から室町時代まで、この時代に製作された絵巻にはさまざまな人々の笑顔が賑やかに描かれています。平安時代末期の天台宗の高僧、覚猷の作とされる『鳥獣人物戯画巻』には、人に模された猿や兎の笑いさざめく姿や、首引きに興じる若い僧と老尼を囃し立て、大笑いする仲間たちなどが鮮やかに写しとられています。お伽草子絵巻の『福富草紙』は、お話自体が放屁の珍芸をめぐっての物語ですから、笑い顔がたくさん登場するのも当然かもしれません。『絵師草紙』に描かれた伊予国を知行することになり喜んで踊る絵師と、横で身をよじって笑う妻たちの描かれた祝宴のシーンも有名です。高僧伝絵巻でも覚如の生涯を描いた『慕帰絵』では、南滝院で僧侶たちが笑顔で食事をとっており、社寺縁起絵巻の一つ『石山寺縁起』では、供待ちしている従者たちが笑いながら遊戯しています。『一遍上人絵伝』第7巻、京都市屋での念仏踊のシーンでは、高座の中で尼僧たちが足を高く上げ、板を踏み鳴らしている様子が描かれています。彼女たちは満面の笑みを浮かべていますが、それは現代のチアリーダーが振り撒いている営業用の笑顔と同じだったのではないか……と言うと仏罰が当るかもしれません。
『本郷』No.82(2009年7月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第82回「笑いのはなし」(2)を元に改稿しました