国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第14回 浅井三姉妹(1)

2011年06月02日

  大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が話題になっています。浅井三姉妹を演じる華やかな女優陣、織田信長豊臣秀吉徳川家康を演じる個性的な男優たち…。彼らの描く戦国像は、メルヘンのような軽やかさにあふれています。好悪は別にして、暗い話題の多い現在に一服の清涼剤となってくれているようにも思います。私たちは戦国の世を力強く生きた浅井三姉妹の実像をウォークしてみましょう。

 浅井を「あさい」と読むのか、「あざい」と読むのかよく問題になります。『国史大辞典』や『人物叢書』は「あさい」を、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「あざい」をとっています。大河ドラマでは時代考証の小和田哲男先生の説に従って「あざい」としています。浅井氏の本拠といわれる近江国おうみのくに浅井周辺は古くから北陸と畿内を結ぶ交通の要地として栄え、その名は藤原宮ふじわらのみや平城宮へいぜいきゅうから出土した木簡にも見られます。室町時代末期の国語辞書である『節用集せつようしゅう』では「アザ井」と訓じられていて、『国史大辞典』でも東浅井郡は「ひがしあざい」が正しいとなっています。しかし平安時代の中期に源順みなもとのしたごうが撰した辞書『和名類聚抄』では「あさい」とにごらず、果たして戦国時代に浅井氏がどう呼ばれていたのかは、分らないと書くしかありません。答えがひとつだけでないことも、歴史を楽しむための大きな要件ですから、皆さんもあれこれ考えていただければ幸いです。

 さて、大河ドラマでは第1回ですぐに自刃じじんしてしまった三姉妹の父と祖父あたりから話を始めたいと思います。浅井氏3代とよく言われるように近江国の北半分の守護京極氏被官ひかんだった浅井氏が勃興したのは、三姉妹の曽祖父にあたる浅井亮政あさいすけまさの時でした。南北朝時代婆娑羅ばさら大名として有名な佐々木高氏(導誉)の直系である京極氏の内紛に乗じて、亮政は自らと同じ在地領主である国人こくじんたちとともに、近江国の実権を握っていきます。浅井一族の居城となる小谷城おたにじょうを築城したのは大永5年(1525)、江南を支配する佐々木氏一族の六角氏と争い、越前国朝倉氏浄土真宗の勢力と結びながら力を蓄えます。次の浅井久政は京極高広に攻められ、再び六角氏に屈するなど対外的に振いませんでしたが、内政面に力を注いだ時代と言われます。

 久政は永禄3年(1560)に前年に元服したばかりの16歳の浅井長政に家督を譲ります。長政は父が続けてきた江南の六角氏との平和策を捨て、同年肥田・野良田の戦ひだのらだのたたかい六角義賢ろっかくよしかたを破り、翌年には美濃国斎藤氏と呼応した佐和山城への攻撃も退けます。さらに、六角氏の内紛(観音寺騒動)が起きると愛知川えちがわまで軍を出し、同9年六角家臣布施公雄の乱に加担して、額田王の「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」(『万葉集』1)で知られる蒲生野がもうので六角氏に大打撃を与えました。その勢力圏は、江北三郡(伊香郡浅井郡坂田郡)を中心に犬上郡愛知郡高島郡に及び、京極高広・高慶兄弟を封じ込め、台頭期に利用した守護家との関係を清算して領国支配を確固たるものにします。歴史学的には伊達氏松平氏毛利氏などとともに国人から下克上した戦国大名の典型とされています。まさにその力が頂点に達した頃、浅井三姉妹の母お市(小谷の方)が、兄織田信長のもとから長政に嫁いできたわけです。その時期については、永禄10年頃とされてきましたが、同2年から6年頃という説もでています(宮島敬一著『浅井氏三代』/「人物叢書」/吉川弘文館刊)。いずれにしてもこの婚姻は信長が尾張国を制し、「天下布武」を目指し始める時期であり、政略結婚の臭いが強く感じられます。

 信長と友好関係にあったこの時期、長政は永禄11年7月16日越前から信長のもとへ移る足利義昭を小谷城に饗応、さらに9月に信長が上洛した際には高宮(彦根)で参陣するなど共同行動をとります。しかし良好な関係も長くは続きませんでした。元亀1年(1570)4月信長の越前侵入が始まると、旧敵六角承禎(義賢)とも結んで離反、朝倉義景と夾撃の態勢をとり、信長を狼狽させます。しかし6月に進攻して来た織田・徳川連合軍との姉川の戦で浅井勢は大敗し、以後小谷城は、横山城の守将木下秀吉(豊臣秀吉)の監視下に置かれることになります。こうした伯父である信長との緊張関係が続くなか、お茶々(淀殿)、お初(常高院じょうこういん)、お江(崇源院すうげんいん)の三姉妹は生まれたわけで、天正1年(1573)8月織田軍の猛攻を受け、父の長政は自刃し小谷城は落城し、三姉妹は母のお市の方とともに父を攻め滅ぼした織田氏の許に引き取られていくことになります。

 

『本郷』No.92(2011年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第92回「浅井三姉妹」(1)を元に改稿しました