戦国の世を健気に生き抜いた浅井三姉妹の足跡を追う、「国史大辞典ウォーク」。今回は茶々、初、江の三姉妹が織田信長に引き取られたところから話をはじめましょう。
『織田軍記』によれば、天正1年(1573)8月、母親のお市(小谷の方)と小谷城を脱出し、織田氏のもとに戻った三姉妹は、織田信長の指示で、叔父にあたる伊勢国安濃津の城主織田信包に預けられ、のちに清洲城へ移ったとされています。小谷の方は扶持米を与えられたということですから、織田一族の一員として認知されていたということでしょう。しかし天正10年6月、信長が本能寺の変で明智光秀に倒されると、豊臣秀吉への牽制の意図もあって、小谷の方は柴田勝家に嫁すこととなり、三姉妹も勝家の居城であった越前北庄で暮らし始めます。その生活も長くは続きませんでした。翌11年、賤ヶ岳の戦で惨敗した勝家とともに、母の小谷の方は北庄城で自刃し、今度は秀吉が三姉妹を引き取ります。戦国の世とは言え、2度も父母を滅ぼした相手に養育されるという悲劇には、言葉を失います。しかし三姉妹は挫けることなくしっかりと歩み続けました。
浅井三姉妹の人生に織田信長の姪ということが、色濃く影響を与えたことは確かです。当時の戦国大名たちにとって、信長は「天下統一」に近づいた初めての武将として大きなカリスマ性を持っていたはずです。中でもその後の覇権を競った秀吉と徳川家康にとって、信長は特別な存在でした。秀吉には自身を取り立ててくれた主人であり、家康も幼少の人質以来の深い関係を持つ同盟者でした。自らの一族にその姪である三姉妹を加えることは、信長のカリスマ性を継承することをも意味し、権力の強化に間違いなく役立つことでした。そうした政略的な存在としても、三姉妹はその後の豊臣氏と徳川氏の運命に、大きな関わりをもって行くことになります。
浅井三姉妹の長女の茶々は秀吉の側室となり豊臣秀頼を生み、淀殿として大きな力を振るいます。彼女については桑田忠親先生の『淀君』(人物叢書/吉川弘文館刊)という名著があるので、それに任せることにして話を進めましょう。次女の初(常高院)は三姉妹の中では一番穏やかな人生を送った人物かもしれません。従兄の京極高次に嫁し、長子京極忠高の嫡母となります。高次の妹が秀吉の側室中、淀殿に次ぐ勢力を持つ松丸殿だったこともよく知られていますが、高次はその閨閥関係もあって秀吉とも家康とも良好な関係を保ち続けました。関ヶ原の戦ののち高次は没しますが、初は薙髪して常高院と号し、慶長・元和の大坂の陣には、家康の意を体して、しばしば和議の使者をつとめました。戦国時代の大名家の女性は、それぞれの家を結ぶ外交官の役割を果たしたと言われていますが(永井路子)、まさしくそれに相応しい働きを初は見せたわけです。
三姉妹の末娘が今年の大河ドラマの主人公お江(崇源院)です。お江は秀吉に引き取られるとすぐに、天正12年にわずか12歳で尾張大野城主佐治一成に嫁がされ、1年もたたないうちに離縁されます。いずれも秀吉の思惑があってのことで、文禄1年(1592)2月、秀吉の養女となったお江は秀吉の甥で養子の羽柴秀勝と再婚します。ところが文禄・慶長の役に出兵した秀勝が同年9月、朝鮮の唐島(巨済島)で病死したため寡婦となってしまいます。そしてお江の3回目の婚儀は文禄4年9月、徳川家康の実質的な世子であった徳川秀忠との間で結ばれます。時にお江は23歳、秀忠は17歳、6歳年上の姉さん女房でした。戦国時代では離縁や死別で再婚することは珍しいことではなく、さらに大名家の子女ともなれば、お江の例にもれず政略上の理由で嫁いだり離縁されたりすることはまま見られる事態でした。秀忠との間にお江は徳川家光・徳川忠長の2男、千姫・子々姫・勝姫・初姫・和子(東福門院)の5女を儲けます。徳川宗家を継いだ家光、後水尾天皇に嫁ぎ皇后となった和子と、徳川将軍家と天皇家に連なる子供に恵まれたお江の後半生は、まさに過酷な戦国時代の終わりと、平和な江戸時代の到来を私たちに告げているように思えます。
『本郷』No.93(2011年5月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第93回「浅井三姉妹」(2)を元に改稿しました