国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第5回 世界史のなかの坂本竜馬(1)

2010年09月02日

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ佳境に入ってきました。現代風のスピーディな展開で人気も高いようです。幕末維新のヒーローの中でも、抜群の国際感覚を持っていた坂本竜馬にちなんで、世界史のなかで、その生涯をウォークしてみたいと思います。

 坂本竜馬は天保6年(1835)11月に高知藩郷士、坂本八平直足・幸の次男として、高知城にほど近い本町筋1丁目に生まれました。時の将軍は徳川家斉、前年に全国を襲った天保の飢饉がまだ続き、インフレ貨幣の天保通宝の大量鋳造が始まった年でした。世界では後に竜馬や日本の運命を大きく動かすことになるアメリカ合衆国の東インド派遣艦隊が常設され、フランスでバルザックが『谷間の百合』、デンマークでアンデルセンが『即興詩人』を著したのもこの年でした。幕藩体制の行き詰まりによる経済・社会構造の変動と、欧米列強のアジア進出という国際関係の緊張が高まった内憂外患のこの天保・弘化期こそ、少年竜馬の育った時代だったのです。同時にこの19世紀中葉は、日本のみならず世界的にも侵略の戦火と革命の嵐の吹き荒れる、激動の半世紀でした。

 嘉永元年(1848)、12歳の竜馬は小栗流の日根野弁治道場に通い始めます。小栗流は高知藩に伝わる、「身を鞠になぞらえ、転変自在に働くやわらことを教えたので、鞠身のやわらとも呼ばれた」剣道柔道を併せた武芸の一派です(『国史大辞典』「柔道」項目の「柔道主要流派一覧」参照)。この教えが竜馬の柔軟で自由な考え方に影響を与えたようにも思われますが、それはまた別の機会のお話しとして、ここは目を世界に転じてみましょう。

 この年、ヨーロッパは大きく揺れ動きました。「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している-共産主義の妖怪が」という有名な文言で始まる『共産党宣言』が出版されたのは、この年の2月24日のことでした。同じ日フランスのパリでは、蜂起した民衆により市庁舎とチュイルーリ宮殿が占領され、国王ルイ=フィリップは亡命し、第2共和政がスタートします。革命の炎は大陸各地に燃え広がり、3月にオーストリアで宰相メッテルニヒが追放され、ドイツでも新たな自由主義の内閣が組閣され、国王のフリードリッヒ=ウイルフェルム4世はドイツの統一と自由の促進を約束させられます。いわゆる3月革命の勃発です。さらにイタリアでは、ミラノやヴェネチアで独立と統一を求める反乱が起こり、ハンガリーには独立政府が樹立され、チェコスロバキアでも自治権の獲得を目指す動きが高まります。工業化の先頭を走っていたイギリスでは、対立から労使協調へ向かう労働運動の新たな動きが始まり、一方で分離独立を求めるアイルランドの反乱が起きます。

 こうしたヨーロッパ各地で起きたドラスティックな事件の背景には、産業革命による経済社会構造の変動と、国民国家の形成が経済発展のために必要不可欠となった近代そのもののアポリアがありました。そしてこの年、アメリカに編入されたばかりのカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュに沸くことになります。ここで採掘された大量のはヨーロッパにもたらされ、世界経済は大きく発展していきます。竜馬が故郷で青雲の志を育んでいたころ、世界は大きく揺れ動き、彼の登場を待っていました。

 嘉永6年3月、竜馬は江戸へ剣術修行に旅立ち、北辰一刀流千葉周作の実弟、千葉定吉の道場に入門します。そして6月3日、ペリーに率いられた4隻の軍艦浦賀の沖に現れました。数日間のドタバタ劇さながらの交渉の後、久里浜応接所でアメリカ大統領からの国書を江戸幕府に引き渡したペリーは、翌年春の再来訪を告知して琉球広東カントンへ向け出航していきます。このわずか10日あまりの黒船の来航が当時の人々に与えた衝撃は大変なものでした。竜馬も高知藩の品川邸近辺の警備に動員されます。父坂本八平宛の手紙では、「異国船処々に来たり候由に候らへば、いくさも近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候」と勇ましげな攘夷の意気込みを書き込んでいます。竜馬の世界史との出会いはこんなふうに始まりました。

 翌7年、日米和親条約を締結したアメリカ艦隊が下田から姿を消した6月、竜馬は「異国の首」は持たずに高知に帰国します。老中阿部正弘水戸藩藩主徳川斉昭を中心とした公儀中枢は、立場の違いはあれ「海防の不備」を認識しており、避戦論の立場で交渉に臨み、竜馬が予想したような戦いは起きなかったのです。竜馬がその状況をどう考えていたかは分かりません。しかし、帰藩してすぐに中浜万次郎の漂流記をんだことで知られる河田小竜を訪ね、海運の必要性を語り合っていることは、海援隊に繋がる、世界を舞台に活躍する構想をすでに持っていたことを示しているように思われます。

『本郷』No.86(2010年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第86回「世界史のなかの坂本竜馬」(1)を元に改稿しました