今年はロンドンオリンピックの年です。開会式や閉会式、競技会場や応援、表彰式など世界中の国々の国旗が掲げられ、打ち振られることでしょう。こうした祭典の中だけではなく、私たちの日常にも、のぼりや旗は鮮やかな姿で翻っています。今回はそんな旗と日本人のかかわりをウォークしてみたいと思います。
古代の朝廷や寺院で開かれた儀式の多くは中国から伝わったものでしたが、そこでは荘厳を演出する幢幡が飾られました。朝賀や即位の礼などを彩った幡には、錦や綾に高松塚古墳の壁画にも描かれていた青竜・朱雀・白虎・玄武の四神を刺繍した四神旗、飛翔する鷹を描いた鷹像幡(幢)、中央に万歳の2字を篆書した万歳幡(幢)などがあります。法会の幢は、『日本書紀』推古天皇31年(623)条に、新羅・任那から仏像などと併せて灌頂幡1具と小幡12条が貢納されたと記されています。正倉院に伝来し、2006年の正倉院展に出陳され、手の込んだ織りと刺繍で注目を集めた孔雀文刺繍幡は、こうした舶載品ではなく日本製で、寺院の堂内や法会の場を飾った幡身の一部として考えられています。
中世が近づき、武士が勃興して戦乱が相次ぐなか、今年のNHK大河ドラマ『平清盛』でも武士の掲げる旗指物が画面で踊っているように、旗は戦場での敵味方の識別や所在の標として、さらには士気を鼓舞するシンボルとして、多彩な展開を遂げていくことになります。源頼朝と源義仲の挙兵、平清盛による福原遷都などと騒然たる治承4年(1180)、藤原定家は日記の『明月記』に、「世上、乱逆追討耳に満つといえども之を注せず、紅旗征戎吾が事に非ず」と記しました。没落する貴族の拗ね言とも感じますが、文学者の反骨の言と理解しておきたいと思います。時はまさに平氏が紅旗、源氏が白旗を掲げ、血で血を洗う戦いを繰り広げた治承・寿永の乱の時代だったのですから。文治5年(1189)、奥州征伐の東海道大将軍に任じられた千葉常胤が、白旗に「伊勢大神宮/八幡大菩薩」という神号と向鳩を刺繍したという逸話が『吾妻鏡』に残っていますが、同様に頼朝傘下の武将たちは、佐竹氏が扇、児玉氏は団扇といった付物を加え、みずからの旗の差別化をはかっていきます。
鎌倉時代の中期に描かれた『蒙古襲来絵巻』には、旗差が掲げる御家人の旗標が数多く描かれています。絵巻の主人公の竹崎季長は三目結に吉文字の裾濃の旗、少弐景資の四目結の旗、菊池武房の鷹羽の裾濃の旗、島津久親の鶴の丸に十文字の旗、白石通泰の団扇の旗、安達盛宗の連銭の旗などですが、戦場での活躍が恩賞へと結びついたこの時代、旗はみずからと一族のアイデンティティその物でした。この絵巻には対する蒙古軍の旗も記録されています。遠くヨーロッパでも騎士たちが紋章を旗や盾に描いて、戦場を駆け巡っていました。動乱の世界、旗は常に武人たちとともにあったのです。
天皇の旗である錦御旗が史料に登場するのもこの時代です。承久の乱にあたり、後鳥羽院(後鳥羽天皇)が錦御旗を下賜して官軍の標としたことが、軍記物語の『承久記』に見えています。南北朝の内乱を記した歴史物語の『梅松論』には、京都合戦に破れて九州へと逃れる足利尊氏が、持明院統の光厳上皇(光厳天皇)からこの旗を得て、「今は朝敵の義あるべからず」と、みずからの正統性の大きな根拠としたことが記されています。旗は政権の行方を左右する権威の象徴ともなっていたのです。
戦国時代に入ると、歩兵の旗持が背負う昇旗が主流になります。武田信玄の「疾如風/徐如林/侵掠如火/不動如山」や、宿命のライバル上杉謙信の「毘」の昇旗などが知られていますが、関ヶ原の戦などを描いた合戦絵には、武将の所在を示す馬印、本陣の周囲に立て並べられた長大な幟旗、雑兵たちが腰に挿した識別用の小型の幟など、さまざまな旗が描かれています(『国史大辞典』第3巻別刷図版「合戦絵」参照)。一人一人が旗指物を掲げた兵の姿は、戦場での働き次第で成り上がっていくことが可能だった、戦国という時代をよく示しているようです。
「徳川の平和」がもたらされた江戸時代、民衆の抵抗運動として現れたのが百姓一揆でした。つい私たちは莚の旗を思い浮かべてしまうのですが、実際には立ち上がった百姓たちが掲げたのは、村の名前を染め抜いた村旗だったり、天保以降に現れる「天下泰平我等生命者為万民」といった一揆のスローガンを記した幟だったようです(保坂智著『百姓一揆とその作法』(「歴史文化ライブラリー」/吉川弘文館刊)。町場の民衆を巻き込んだ御蔭参やええじゃないかの熱狂の中心にも、「おかげ踊り」とか「ええじゃないか」と大書された幟がすえられていました。旗のもとに人々は集い、日常を超えた大きなエネルギーを放出したのです。
『本郷』No.67(2007年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第67回「旗のはなし」(1)を元に改稿しました