国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第25回 旗のはなし(1)

2012年05月10日

今年はロンドンオリンピックの年です。開会式や閉会式、競技会場や応援、表彰式など世界中の国々の国旗が掲げられ、打ち振られることでしょう。こうした祭典の中だけではなく、私たちの日常にも、のぼりやは鮮やかな姿でひるがえっています。今回はそんな旗と日本人のかかわりをウォークしてみたいと思います。

古代の朝廷や寺院で開かれた儀式の多くは中国から伝わったものでしたが、そこでは荘厳しょうごんを演出する幢幡どうばんが飾られました。朝賀ちょうが即位の礼などを彩ったには、高松塚古墳壁画にも描かれていた青竜・朱雀・白虎・玄武の四神しじん刺繍した四神旗、飛翔するを描いた鷹像ようぞう幡(幢)、中央に万歳の2字を篆書てんしょした万歳ばんぜい幡(幢)などがあります。法会ほうえの幢は、『日本書紀推古天皇31年(623)条に、新羅しらぎ任那みまなから仏像などと併せて灌頂かんじょう幡1具と小幡12条が貢納されたと記されています。正倉院に伝来し、2006年の正倉院展に出陳され、手の込んだ織りと刺繍で注目を集めた孔雀文刺繍幡くじゃくもんししゅうばんは、こうした舶載品ではなく日本製で、寺院の堂内や法会の場を飾った幡身の一部として考えられています。

中世が近づき、武士が勃興して戦乱が相次ぐなか、今年のNHK大河ドラマ『平清盛』でも武士の掲げる旗指物が画面で踊っているように、旗は戦場での敵味方の識別や所在のしるしとして、さらには士気を鼓舞するシンボルとして、多彩な展開を遂げていくことになります。源頼朝源義仲の挙兵、平清盛による福原遷都などと騒然たる治承ちしょう4年(1180)、藤原定家日記の『明月記』に、「世上、乱逆追討耳に満つといえども之を注せず、紅旗征戎吾が事に非ず」と記しました。没落する貴族ごととも感じますが、文学者の反骨の言と理解しておきたいと思います。時はまさに平氏が紅旗、源氏が白旗を掲げ、血で血を洗う戦いを繰り広げた治承・寿永の乱の時代だったのですから。文治ぶんじ5年(1189)、奥州征伐の東海道大将軍に任じられた千葉常胤つねたねが、白旗に「伊勢大神宮/八幡大菩薩」という神号と向鳩を刺繍したという逸話が『吾妻鏡』に残っていますが、同様に頼朝傘下の武将たちは、佐竹氏児玉氏団扇うちわといった付物を加え、みずからの旗の差別化をはかっていきます。

鎌倉時代の中期に描かれた『蒙古襲来絵巻』には、旗差はたさしが掲げる御家人旗標はたじるしが数多く描かれています。絵巻の主人公の竹崎季長すえなが三目結みつめむすびに吉文字の裾濃すそごの旗、少弐景資しょうにかげすけの四目結の旗、菊池武房たけふさの鷹羽の裾濃の旗、島津久親の鶴の丸に十文字の旗、白石通泰の団扇の旗、安達盛宗もりむねの連銭の旗などですが、戦場での活躍が恩賞へと結びついたこの時代、旗はみずからと一族のアイデンティティその物でした。この絵巻には対する蒙古軍の旗も記録されています。遠くヨーロッパでも騎士たちが紋章を旗やに描いて、戦場を駆け巡っていました。動乱の世界、旗は常に武人たちとともにあったのです。

天皇の旗である錦御旗にしきのみはたが史料に登場するのもこの時代です。承久じょうきゅうの乱にあたり、後鳥羽院(後鳥羽天皇)が錦御旗を下賜して官軍の標としたことが、軍記物語の『承久記』に見えています。南北朝の内乱を記した歴史物語の『梅松論ばいしようろん』には、京都合戦に破れて九州へと逃れる足利尊氏が、持明院統じみょういんとうの光厳上皇(光厳天皇)からこの旗を得て、「今は朝敵の義あるべからず」と、みずからの正統性の大きな根拠としたことが記されています。旗は政権の行方を左右する権威の象徴ともなっていたのです。

戦国時代に入ると、歩兵の旗持はたもちが背負う昇旗のぼりばたが主流になります。武田信玄の「疾如風/徐如林/侵掠如火/不動如山」や、宿命のライバル上杉謙信の「毘」の昇旗などが知られていますが、関ヶ原の戦などを描いた合戦絵には、武将の所在を示す馬印うまじるし本陣の周囲に立て並べられた長大な幟旗のぼりばた、雑兵たちが腰に挿した識別用の小型の幟など、さまざまな旗が描かれています(『国史大辞典』第3巻別刷図版「合戦絵」参照)。一人一人が旗指物はたさしものを掲げた兵の姿は、戦場での働き次第で成り上がっていくことが可能だった、戦国という時代をよく示しているようです。

「徳川の平和」がもたらされた江戸時代、民衆の抵抗運動として現れたのが百姓一揆でした。つい私たちはむしろの旗を思い浮かべてしまうのですが、実際には立ち上がった百姓たちが掲げたのは、の名前を染め抜いた村旗だったり、天保以降に現れる「天下泰平我等生命者為万民」といった一揆のスローガンを記した幟だったようです(保坂智著『百姓一揆とその作法』(「歴史文化ライブラリー」/吉川弘文館刊)。町場の民衆を巻き込んだ御蔭参おかげまいりええじゃないかの熱狂の中心にも、「おかげ踊り」とか「ええじゃないか」と大書された幟がすえられていました。旗のもとに人々は集い、日常を超えた大きなエネルギーを放出したのです。 

『本郷』No.67(2007年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第67回「旗のはなし」(1)を元に改稿しました