水辺の妖怪変化の代表が河童なら、山に棲む妖怪には、どなたも天狗を挙げることと思います。確かに天狗については多くの伝承が残されており、国際日本文化研究センターのホームページ「怪異・妖怪伝承データベース」には、1374件もの書誌情報が集められています(ちなみに河童は1190件、鬼は907件となっています)。なお、怪異・妖怪伝承データベースはジャパンナレッジからも簡単にリンクできますので(ニッポニカURLセレクトから)、基本検索で検索してみてください。今回は、日本文学の古典『源氏物語』や柳田国男の名著『遠野物語』から、カルト的人気を誇る黒田硫黄の漫画「大日本天狗党絵詞」まで、息長く親しまれている天狗たちの今昔をウォークしてみます。
舒明天皇の9年(637)2月、大きな流星が飛鳥京の空を東から西に大音量とともに奔りました。このときに唐への留学から帰国した学問僧の旻が「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たるのみ」と奏上したという『日本書紀』の記述が、わが国における「天狗」の初見とされています。ただし、ここでは「てんぐ」ではなく「あまつきつね」と訓まれており、『史記』などに出てくる彗星や流星を天狗と称する中国の天文思想を当てはめたもので、のちの天狗とは異なるとも言われています。
その後、しばらく天狗の名前は文献から姿を消し、再び生き生きと活動するのは『今昔物語集』『古今著聞集』といった、平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて書かれた説話文学の中でのことになります。ほとんどが仏教文学らしく、天狗が仏法を貶めようとしてさまざまな妖術をほどこすものの、最後は仏の力の前に敗れ去るという内容です。正体が大きな鳶であったという愛宕山の天狗など、山に棲む鳥に似た貌の妖怪で、背中の羽根で自由に飛び回りさまざまなものに化けたり人にとりつき悪さをするという、後世の天狗の姿がみえています。
そして、源平合戦の戦乱の世、武士たちの台頭とともに天狗は修験道と結びつき、現実の事件や争乱に関わる経緯をなしたと軍記物語に記されていきます。『平治物語』の牛若丸(のちの源義経)が鞍馬山で天狗と武芸の修行する挿話は、絵本や映画にもなってよく知られるところです。また、『源平盛衰記』の中に描かれた後白河天皇と住吉明神の間で交わされる天狗問答は、徳の高かった皇族や僧侶が怨恨や不満を抱いて亡くなると、魔界に堕ち天狗となるという転生論など、魔物としての天狗のイメージを強烈に印象づけています。南北朝時代の動乱を描いた『太平記』では、崇徳天皇や後鳥羽天皇まで「悪魔王の棟梁」として登場させ、玄や仁海といった高僧だった天狗と北条氏打倒を謀ったとしています。戦乱を裏で操った「天狗史観」と言ったら言いすぎでしょうが…。
しかし、天狗は恐ろしい魔物でありながら信仰の対象ともなり、どこかユーモラスな印象を人々に与えてきました。それは古い山岳信仰につながる民衆的、反体制的な要素を山神である天狗が持っていたからかもしれません。比叡山や園城寺などの僧侶の腐敗を天狗に託して描いた『天狗草紙』、中国から渡ってきた天狗が比叡山の高僧に散々にこらしめられる『是害房絵巻』には、民衆の哄笑があふれています。ここでは、天狗たちは悪役にもかかわらずのびのびとした筆致で描かれ、ほかの妖怪絵巻とも通じる、あるいかがわしさを伴ったエネルギーを今に伝えています。
こうした絵巻に描かれた、鳥の面貌で山伏の姿をした天狗は次第に小柄になって「鴉天狗」とも呼ばれるようになり、それを従えた鼻高で赤ら顔の大柄な大天狗が山々に割拠するイメージが確立していきます。この鼻高天狗のイメージは、狩野元信が室町時代末期に鞍馬寺に奉納した天狗画像が端緒とされ、伎楽面の一つ、魔を祓う胡徳面(『国史大辞典』第4巻別刷図版「伎楽面」参照)の影響を受けて成立したとも考えられています。私たちが絵馬や天狗ゆかりの寺社で目にする山伏姿で高下駄を履き、羽団扇を手にする堂々たる体躯の天狗像は、実は江戸時代以降のものだったのです。
江戸時代になると天狗をめぐる考証も盛んになり、林羅山、新井白石、荻生徂徠といった儒学者から、平田篤胤のような神道学者、松浦静山、曲亭馬琴などの文化人たちが天狗を論じています。また、天狗による神隠の逸話や人間にお宝を騙し取られる天狗を描いた昔話も数多く残っています。春爛漫の花の下、石川県の銘酒「天狗舞」でも傾けながら、かつて天空を闊歩した天狗たちに思いをはせてみるのも楽しいかもしれません。
『本郷』No.70(2007年7月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第70回「妖怪たちの宴」(2)を元に改稿しました