国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第26回 旗のはなし(2)

2012年06月07日

「宮さん宮さん、お前の前にちらちらするのはソラ何や、あれは朝敵征伐せいとの錦御旗にしきのみはたを知らないか、トコトンヤレ……」

戊辰戦争の際に官軍が歌ったとされる「宮さん宮さん」です。品川弥二郎が作詞し、大村益次郎が作曲したとも伝えられていますが、明治になりトコトンヤレ節として大流行し、よく知られることになります。親しみやすいメロディで、落語出囃子でばやしともなっており、林家木久蔵などが使っています。しかし、言うまでもなくこの歌が狙ったものは、軍気高揚であり、みずからの正統性を宣揚することでした。

明治に入り、天皇から軍隊に授けられる軍旗と呼ばれ、陸軍の歩兵および騎馬の連隊だけに詔勅とともに親授されました。したがって連隊旗とも言われましたが、明治7年(1874)近衛歩兵第一連隊と第二連隊に授けられたのが起源とされています。中央に日章が置かれ、そこから16条の光が放射される旭日旗きょくじつきでした。軍旗は、「天皇すなわち大元帥だいげんすいを象徴したものとして尊重され、国軍団結の核心とされ」ました。特に乃木希典のぎまれすけ西南戦争での軍旗喪失の責をとり、明治天皇殉死じゅんしした逸話は広く語られ、その後の軍旗の物神化に大きな役割を果たしました。「明治十年役に於いて軍旗を失ひ其後死処得度心掛候も其機を得ず」という遺書の言葉は、夏目漱石の『心』でも重要なキーワードとなっており、その死が明治の社会に与えた衝撃の大きさを示しています。

日の丸の国旗も国威発揚に利用されました。白地に朱で丸を描いた丸紋まるのもんは、古くから日本人に好まれてきました。や旗の文様もんようとして使われ、『愚管抄ぐかんしょう』には保元ほげんの乱に勝利した源義朝が、「悦テ日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカイテ」と描かれています。戦国時代には朱の丸を描いた昇旗のぼりばたが盛んに用いられ、江戸幕府は幕府御用船の船印ふなじるしとして使っていました。幕末になり外国船の来航が盛んになると、幕府は安政1年(1854)7月、日本船総船印として日の丸ののぼりを定め、国際的な意味を持つようになります。安政6年には、「御国総標ハ白地日ノ丸ノ旗」とするふれが出され、サンフランシスコの港に入った万延元年遣米使節が乗った咸臨丸かんりんまるのマストにも、その旗は高らかに掲げられていました。

明治政府も、引き続き日の丸を国旗として使用することを明治3年1月に布告し、日の丸は新興国家日本のシンボルとして全国に溢れて行きます。当時の錦絵を見ると、明治1年の「天皇東幸図」には、錦御旗や菊の紋章の幟旗のぼりばたは掲げられているものの、日の丸は見当たりません。江戸幕府軍として最後の抵抗をした彰義隊の旗印が日の丸だったのですから、これは当たり前のことだったのかもしれません。しかし、明治9年6月の奥羽巡幸の万世橋まんせいばし出発の様子を描いた錦絵には、家々に飾られた日の丸、軍楽隊の掲げる旭日旗などが、また、明治6年10月の開成学校の開業図には、校舎のファサードに掲げられた大きな日章旗が描かれています。この後も日の丸は、明治国家のさまざまなイベントの場で翩翻へんぽんひるがえることになります。

日の丸が躍ったのは祝祭や行幸ぎょうこうの場だけではありません。西南戦争という内戦でも、日清戦争日露戦争といった対外戦争の戦場でも、朝鮮中国の占領地でも掲げられました。出征兵士を見送る時にも、たくさんの日の丸や旭日の小旗が打ち振られました(一ノ瀬俊也著『銃後の社会史』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。そこには哀しみ、不安、激励、願いなど複雑な感情が渦巻いたはずです。戦地におもむく兵士たちには、「武運長久」などと寄せ書きされた日の丸の旗が贈られることもありました。今でも沖縄などで続けられている遺骨収集のなかで、銃弾の痕の生々しい日の丸が60数年ぶりに見つかった、などというニュースが報じられることがあります。死者たちにとっては戦後はまだ終わっていないのかもしれません。

「ショウ・ザ・フラッグ!」10年以上前のことになりますが、2001年の同時多発テロの後、アメリカ合衆国の高官から日本の外務省幹部に投げかけられた決め台詞と言われています。それにこたえるように、当時の日本はイラク戦争に自衛隊を派遣しました。あれから10年余、新テロ特措法の失効もあって、海上自衛隊の派遣部隊は帰国しましたが、国際連合の平和維持活動で東チモールや南スーダンなどに自衛隊の派遣は続いています。内閣府の世論調査では、国民の9割以上が自衛隊の平和維持活動を評価していることとなっており、日本国憲法に込められた平和主義を国際情勢のなかで、これからどう生かしていくのかが問われているようにも思います。

太平洋戦争の末期、硫黄島の戦と呼ばれる激しい戦闘がありました。これを日米双方の視点から描いたクリント・イーストウッド監督の映画、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」はアメリカではアカデミー賞やゴールデングローブ賞を、日本でも日本アカデミー賞を授賞し、話題となりました。そこで描かれているように、擂鉢山すりばちやまの山頂に掲げられた星条旗の背後には、日米合わせて2万8千人というおびただしい死がありました。昭和60年(1985)、島に日米合同で建立された慰霊碑には次のような言葉が刻まれています。

 「決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である」

『本郷』No.68(2007年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第68回「旗のはなし」(2)を元に改稿しました