国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第9回 日露戦争百年(2)

2011年01月06日

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」には日露戦争の時代を生きた、様々な人々が登場しました。主人公だった秋山好古あきやまよしふる秋山真之さねゆき兄弟と正岡子規まさおかしき連合艦隊を率いた総司令官「提督アドミラル東郷平八郎旅順の戦の「悲将」乃木希典のぎまれすけ唱歌に「杉野は何処いずこ、杉野は居ずや」の悲痛な叫びを唄われた「軍神」広瀬武夫中佐。一方でこの時代には、ドラマには直接登場はしませんでしたが、「君死にたまふことなかれ」と歌った歌人で詩人の与謝野晶子よさのあきこ、さらに大きく立場を変えて、非戦論を唱えた内村鑑三幸徳秋水といった人々も間違いなく存在していました。今回は日露戦争をめぐる幅広い人物像をウォークしてみます。

 今回のドラマの原作となった「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」と始まる、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は日露戦争の時代を描き、司馬作品の中でも特に人気の高いものの一つです。まずは主人公の伊予国松山に生まれた秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規三人から話をすすめましょう。秋山兄弟は、兄の好古が陸軍、弟の真之は海軍へと進みます。好古は騎兵第一旅団長として日露戦争に出征し、沙河さかの会戦黒溝台こっこうだいの戦では弾薬不足や作戦の読み違えなどで苦戦に陥りながらも持ちこたえ、「満州軍の危機を救い、その武勲は戦史を飾った」と評されています。弟の真之は海軍を担う逸材としてアメリカ合衆国に留学、日露戦争中は作戦参謀として連合艦隊の指揮に当たりました。日本海海戦で世界最強とも言われたロシアバルチック艦隊を破り、その名を世界に轟かせることになります。旗艦三笠艦上から大本営に打電された「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これ撃沈滅げきちんめつせんとす、本日天気晴朗なれ共波高し」は、秋山の手になったと言われています。このとき秋山がとった戦艦巡洋艦による丁字、乙字戦法、主力艦の戦闘後の駆逐艦水雷艇による水雷攻撃などは、同時代的には世界最高水準の戦術でしたが、歴史的には潜水艦飛行機が登場する以前の「最後の水面上の戦闘」だったのです。しかし、この勝利を教条化し、艦隊決戦主義や大艦巨砲主義に固執したことが、日本海軍の太平洋戦争における敗北をもたらしたとも言われています(田中宏巳著『秋山真之』/「人物叢書」吉川弘文館刊)。

 諜報作戦もまた日露戦争の一面でした。ヨーロッパで対ロシア工作を展開した明石元二郎あかしもとじろうについては、数多くの伝記や研究書が出版されています。明石はロシアからの独立を目指すフィンランドの革命家コンニ=シリアクスと組んで、民族運動やロシアの反ツアー勢力に巨額の資金を提供し、要人暗殺などの破壊活動を展開したとされています。当時の情報活動を記録した明石の手記『落花流水』の草稿は、国立国会図書館の憲政資料室に寄託保管されている『明石元二郎文書』に収められています(伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館刊)。陸軍大学校出身のエリートだった明石は、戦後の明治40年(1907)に陸軍少将に昇進し、第14憲兵隊長(朝鮮)となり悪名高い憲兵制度のもと朝鮮統治政策をすすめ、義兵運動などの韓国民衆の朝鮮独立運動に徹底した武力鎮圧を行います。1907年8月から1909年12月まででも、義兵の死者16,700余名、負傷者36,770余名となっていますから、いかに過酷な弾圧が展開されたかが分かろうかと思います。

 前線での諜報活動や破壊工作も進められました。西本願寺ウラジオストック出張所の僧侶に身をやつして工作に当たり、日露開戦後に中国人馬賊による「満洲義軍」を指揮した花田仲之助や、内蒙古ないもうこで女学校を開校し工作員たちにさまざまな情報や保護を与えた河原操子かわはらみさこが知られています。日清戦争の後に軍職を離れて大陸浪人となり、諜報活動にたずさわった石光真清いしみつまきよの手記『曠野こうやの花』には、大陸各地で働く日本人娼婦たちが、こうした活動を影で支えていた様子が描かれています。しかし、石光が深い同情を持って記したように、彼女たちの多くは異国の地で人知れず散っていったのです。

 日露戦争は世界の戦史や軍事思想史にも大きな転機をもたらした戦争でした。正規軍が正面から激突した結果は、戦死者だけでも日本軍84,000人、ロシア軍115,000人という膨大なものでした。ドラマの中でも壮絶な戦闘シーンが描かれましたが、100年後の私たちが真っ先に思い浮かべるべき人物とは、アジアの民衆も含めた多くの無名の死者たちなのかもしれません。最後に晶子が「君死にたまふこと勿れ」と祈った弟の鳳籌三郎ほうちゅうさぶろうが、熾烈な旅順攻略戦から無事生還できたことをご報告しておきます(井口和起著『日露戦争の時代』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。

『本郷』No.54(2004年11月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第54回「日露戦争百年」(2)を元に改稿しました