相撲の愉しみには土俵上の闘いだけでなく、力士のキャラクターも大きな役割を果たしています。郷土出身だから、強いから、優しそうだから、イケメンだから、先代からのファン…、それぞれ贔屓のわけはさまざまです。最終回の今回は明治維新前後のエピソードや、その後の名力士たちをウォークします。
寛政年間に吉田追風が谷風梶之助(2代)と小野川喜三郎の2人横綱を擁し、江戸の勧進相撲を興行として成功させ、そこに大坂(大阪)・京都や九州や東北など各地の力士たちが集まりました。地方巡業も盛んに行われ、行司の木村庄之助・式守伊之助が知られるのもこの頃からです。幕末の面白いエピソードが『ペリー提督日本遠征記』に記されています。日本側がペリー一行に横浜で相撲を見物させ、巨漢力士たちが重い米俵を軽々と運ぶパフォーマンスを見せたというのです。余興で大関小柳常吉がアメリカ人水兵3人を投げ飛ばしたという話も伝わっています。
明治維新の変革は相撲にも大きな影響を与えました。江戸時代では相撲取の身分は大名抱のものは武士、その他は浪人(牢人)という身分でした(高埜利彦著「相撲年寄」/塚田孝編『職人・親方・仲間』/「近世の身分的周縁」3/吉川弘文館刊)。谷風は仙台藩(白石城主片倉家)、小野川は久留米藩などそれぞれ所属する藩があり、そこから扶持を得ていたのです。しかし、版籍奉還や廃藩置県の荒波の中で、力士たちも大名のお抱えを解かれ収入を失いました。錦絵などには賑っている様子が描かれていますが、人々は社会の混乱の中、相撲見物どころではなく、文明開化の風潮のもと、断髪ひとつをとっても髷を結った力士たちは、前近代の旧弊として排斥されかねなかったのです。そうした逆風の中、相撲界の近代化に力を尽くしたのが高砂浦五郎(初代)でした。明治6年(1873)に相撲会所の改革を叫んで独立。後に警視庁の指導もあって復帰することになりますが、会所の実権を握って力士・年寄の給金や運営規則を定めるなど、近代的な仕組みを作りました。
相撲人気の回復のきっかけとなったのは、明治17年3月に行われた明治天皇の天覧相撲です。この時の横綱が梅ヶ谷藤太郎(初代)で、翌年5月に引退するまで幕内在位11年間で6敗しただけという強豪でした。人格者としても知られており、引退後も年寄雷として角界を支えました。番付に正式に横綱が冠されたのは明治33年5月場所の西ノ海嘉治郎(初代)からですが、同36年6月に同時に横綱となった常陸山谷右衛門と梅ヶ谷藤太郎(2代)は、豪快な取組みの常陸、技巧派の梅ヶ谷と対照的で、その対戦は相撲人気を大いに盛り上げました。そして、ついに常設館として明治42年、両国の回向院の境内に国技館が竣工します。設計者は日本銀行本店・東京駅などを手がけた辰野金吾。建坪1000坪、内部に柱の1本もない、32本の鉄骨を中央頂上で合掌させるという斬新な構造でした。
次の世代の強豪横綱が太刀山峰右衛門です。入門のときから争奪戦になり、板垣退助までが勧誘に動いたというのですから、その逸材ぶりは際立っていました。188センチ・142キロと、現代の角界でも通用する超一級の体躯から繰り出される突っ張りは強烈で、「太刀山は四十五日(ひと突き半の洒落)で今日も勝ち」と川柳に詠まれたほどでした。しかし、この時期から相撲の人気は次第に衰えを見せ、関東大震災での国技館焼失などもあって、しばし雌伏の時代を送ることになります。
ラジオ放送の開始などもあって、次第に相撲人気は回復していきますが、昭和初期の土俵を支えたのが玉錦三右衛門です。昭和7年(1932)、相撲界を揺るがした大量脱退事件の際も、相撲協会に残り孤軍奮闘しました。その混乱の中で登場したのが、前人未到の69連勝を達成した双葉山定次です。昭和12年に横綱となり、在位9年17場所、180勝24敗という大横綱でした。20年11月に引退後は、年寄として戦後の相撲復興に力を尽くしました。
その後も栃錦清隆と若乃花幹士、柏戸剛と大鵬幸喜、輪島大士と北の湖敏満といったライバル対決が話題を呼び、国民栄誉賞を受賞した千代の富士貢、さらに若貴兄弟と次々にスターが現れました。そして現在、幕内上位ではモンゴル(モンゴル人民共和国)・ブルガリア・ロシア・グルジアなど海外出身の力士が活躍しています。グローバル化する世界を取り込みながら、国技の香りも残す相撲の熱戦を、これからも愉しんでいきたいものです。
『本郷』No.74(2008年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第74回「相撲のゆくえ」(3)を元に改稿しました