国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第12回 妖怪たちの宴(3)

2011年04月07日

 妖怪変化とのお付き合いも今回が最終回。『百鬼夜行絵巻ひゃっきやこうえまき』ではありませんが、この機会に『国史大辞典』の中にむ妖怪たちに登場いただき、「妖怪たちのうたげ」をお開きといたします。はたして何人(?)ご紹介できますか……。

 河童かっぱ天狗と続き、「私たちをお忘れではないでしょうか?」と怒っているのはさんです。確かに記紀神話にも、『日本三代実録』にも、紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』にも、もちろん説話文学の『今昔物語集』にもその名を轟かせ、絵巻の世界でも『吉備大臣入唐絵巻きびだいじんにっとうえまき』『長谷雄草紙はせおぞうし』『酒呑童子絵巻しゅてんどうじえまき』、仏教世界でも六道絵ろくどうえや『地獄草紙』に描かれています。昔話桃太郎が退治に行くのは鬼が島、一寸法師は鬼と戦い、能楽の「野守」や「安達原」、民俗文化でも秋田県なまはげなど、いたるところで目撃することができます。由緒といい、活躍ぶりといい、鬼こそ妖怪変化の王と呼ぶべき存在でした。子どもの遊びの定番は鬼ごっこ。ほら、あなたの仕事場にも、「仕事の鬼」が……。

 も大切な妖怪キャラクターです。狸は人を化かすにしても、その姿からユーモラスな印象を与えてくれます。落語では因業親爺いんごうおやじにこき使われて泣き出したり(「化物使い」)、鯉に化けて庖丁さばかれそうになったり(「狸の鯉」)と散々です。狸が遺したものとして、群馬県茂林寺もりんじ文福茶釜ぶんぶくちゃがまが有名ですが、鎌倉建長寺の勧進和尚に化けた狸が揮毫きごうしたという墨蹟ぼくせきも、東海道の宿場町のそこここで見ることが出来ます。まじない(禁厭きんえん)が切れても枯葉にはならなかったようです。

 狸に比べ狐は稲荷信仰とも結びつき、はるかに霊力の強い存在でした。また、狐神きつねがみとして信仰の対象ともなりました。人間と婚姻して子どもが生まれたという伝説も、陰陽師おんみょうじ安倍晴明あべのせいめいの出生譚など数多く残っています。皆さんも、「恋しくば訪ね来てみよ和泉いずみなる信太しのだの森の……」という哀しい子別れ言葉をお聴きになったことがあるかと思います。また、人形浄瑠璃歌舞伎の『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「狐忠信」は、狐親子の情愛の篤さを振り付けの妙や、宙乗りのスペクタクルな演出で表現した人気演目の一つです。一方で、人に憑依ひょういする物怪もののけとしての狐も信じられてきました。江戸時代前期の牢人学者岡西惟中おかにしいちゅうは、『消閑雑記』(『日本随筆大成』第3期第4巻。吉川弘文館刊)の中で、「狐はあやしきものなり、常に人にばけてたぶらかし、また人の皮肉の内に入りてなやまし」と記しています。いわゆる狐憑きつねつきと呼ばれる憑物つきもの現象です。人に憑く狐は関東ではオサキ狐、中部でクダ狐、東北・信州のイヅナ、出雲の人狐など、全国に広く分布しています。狐に憑かれると、狐の真似をしたり、油あげを食べたいと言ったり、錯乱がひどくなり死ぬことさえありました。いずれにしても里山に棲む狐は日本人にとっては神にも妖怪にもなる、親しみ深い生き物であったことは確かです。

 狸や狐は野生の動物ですが、飼育動物のも妖怪になりました。長生きした、あるいは野生化した猫が猫俣ねこまたという妖怪になり人を襲う話は、早くは吉田兼好よしだけんこうの『徒然草』、藤原定家の『明月記』にも見られ、江戸時代には多くの化猫話が生まれます。有名な佐賀藩の化猫騒動もその一つですが、講談錦絵となって流行しました。犬では、犬神いぬがみという憑依現象が知られていますが、むしろ妖怪を撃退する霊力の方が信じられていました。曲亭馬琴読本よみほん南総里見八犬伝』は、飼犬八房やつふさ伏姫ふせひめの感応で誕生した八犬士が、主君家を再興させるという勧善懲悪の伝奇小説で、犬の持つ超能力が大いに喧伝されています。

 この他、一目小僧山姥やまうば土蜘蛛つちぐも夜叉やしゃ生霊いきりょう死霊しれい鬼火人魂幽霊・怨霊(怨霊思想)・付喪神つくもがみ(『付喪神草紙』)・大太法師だいだらほうし巨人伝説おおひとでんせつ)など、『国史大辞典』にはさまざまな妖怪変化が棲んでいます。

 しかし、「人間が一番怖い」とも申します。今回のトリは、妖怪と呼ばれた2人の人物に勤めてもらいます。まず、江戸時代後期の幕臣、甲斐守鳥居耀蔵とりいようぞう町奉行として、蛮社の獄と呼ばれる洋学への大弾圧、さらに町人生活への厳しい取り締まりで、「妖怪」(耀甲斐ようかい)と怖れられました。失脚後も30年余生き延び、亡くなったのは明治6年のことでした。残る1人は、波乱に満ちた経歴や独特の容貌と右寄りの政治姿勢から「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介きしのぶすけです。40歳の若さで満洲国の経済政策の責任者として統制経済と軍需工業化体制を確立、東条英機が首相の座に着くと商工省の大臣に抜擢され、さらに昭和18年(1943)に軍需省が創設されると国務大臣軍需次官になって、戦争経済体制を実質的に取り仕切ります。敗戦後は戦争犯罪人の容疑者として逮捕されますが、起訴は免れます。公職追放の解除後は直ちに政治活動を再開し、憲法改正問題では改正派の旗頭となって保守合同を推進しました。そしてついに昭和32年に内閣総理大臣に就任します。昭和35年、日米安全保障条約を広範な反対運動を抑えて批准したのちに辞職。岸も鳥居耀蔵同様に長命で、亡くなったのは昭和62年のことでした。しかもその間、実弟の佐藤栄作の総理大臣就任をささえるなど、保守派の重鎮として隠然たる力を保ちつづけました。孫の安倍晋三は平成18年(2006)に総理大臣に就任するや、「祖父も父も果たせなかった悲願の憲法改正」などと発言、こうなってくるとやはり人間が一番……。

『本郷』No.71(2007年9月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第71回「妖怪たちの宴」(3)を元に改稿しました