江戸時代の夫婦と聞くと、皆さんはどんなカップルを連想されるでしょうか。後水尾天皇と東福門院(徳川和子)、赤穂事件の大石良雄とりく、和歌山藩の医師、華岡青洲と加恵、野村胡堂の描く銭形平次とお静、「必殺仕置人」の中村主水とりつ、義母せんまで思い出して苦笑いされる方もおられるかもしれません。今回は泰平の世を生きたユニークな夫婦の姿をウォークしてみたいと思います。
江戸幕府が本格的な鎖国の体制を取る以前、17世紀前半の日本には、ポルトガルやスペイン、イギリスなどから大勢の外国人が訪れ、日本女性と結ばれていました。史料編纂所編集の『イギリス商館長日記』に収められた、はやという女性が幕府の貿易禁止令にともない平戸に退去するイギリス商館のイートン(William Eaton)に宛てた手紙には、愛する男性への惜別の情が切々と綴られています。「お帰りの前に今一度お目にかかることもできないようでしたら、もはやお下りなさるのでしたら、暇乞いだけでもと存じております。細々と申したいのですが、言葉に尽せません……」(荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』/「日本の時代史 14」吉川弘文館刊)。2人の間にはヘレナという女の子もいたのですが、寛永13年(1636)には、こうした混血児と母親たちは東南アジアに追放され、「日本恋しやこいし」の咬文の悲痛な物語となっていきます。もっとも現地の貿易商などと結婚して、羽振り良く暮らしている様子の手紙も残っており、現実の女性たちは逞しく生き抜いたようです。
江戸時代の大名は、40人を超える妻妾をもった11代将軍徳川家斉ほどではないにせよ、多くの側室をもうけるのが当たり前だった、と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、名君として有名な熊本藩の6代藩主細川重賢は少し違いました。兄の宗孝が江戸城で人違いをした板倉勝該に背後から斬られ、不慮の死を遂げたことにより、部屋住の身から急遽藩主についた重賢は、藩政改革という困難な課題に取り組みます。財政を建てなおすために、大坂(大阪)への回送米を抵当に借銀を調達、中下級の改革派藩士を登用し、綱紀粛正と行政機構の改革を行いました。また、家臣の教育機関として熊本城二の丸に藩校時習館を建設、藩士だけでなく庶民にも門戸を開きます。産業振興でも蝋燭の原料である櫨の栽培と櫨方役所の新設、養蚕の奨励などで成果をあげます。こうした優れた治政を支えたのは、下積み生活を知る重賢の気配りを忘れない温かな人柄でした。公家の久我家から迎えた奥方は後に失明するのですが、夜は目の不自由な妻のために同じ部屋で過ごし、2人の側室のもとには決して通わなかったと伝えられています。また、夫人の侍女には介護に堪能な者をあてるよう配慮するなど、名君は妻への愛情を忘れない優しい夫でもあったのです。
商人の夫婦に目を向けてみれば、三井財閥の祖、三井高利と妻の寿讃は支えあい、三井家を隆盛に導いた夫妻として知られています。高利の母、殊法は経営者として辣腕を振るった女性でしたが、寿讃はもっぱら「内助の功」を発揮しました。10男5女という子供たちを育て、気性の激しい姑に仕え、細かな性格の夫を立てながら家事に励んだ彼女は、店の奉公人たちにも優しい心配りを忘れませんでした。高利に叱られてしょげている手代がいれば代わって詫びてやる。奉公人の親類縁者が訪ねてくれば必ず会って接待をする。こうした陰の力が大店をまとめ、支えていたことは間違いありません。高利も「女房は大黒、夫は夷と心得るように。妻の心入れが悪ければ身上はつぶれ、妻の心がよろしければ次第に家は繁盛する」と語り、夫人の力の大きさを認めています。元禄3年(1690)、京都の高利に宛てた寿讃の手紙は、70歳を超えても昔通りに動こうとする夫に、「もし怪我でもしたら子供の迷惑になりますよ。……道の悪いときには駕籠にのっておいきなさい」など細々とした注意を与えていて、微笑ましくなります(中田易直著『三井高利』/「人物叢書」吉川弘文館刊)。
では、庶民の夫婦たちはどんな暮らしぶりだったのでしょうか。江戸時代に女性の教訓書として広く読まれた『女大学』は、夫に従う貞淑な妻を強調しています。しかし、現実の夫婦生活では妻が強い立場にいることがままありました。「芝浜」などの落語に、ぐうたらな亭主としっかり者の妻といった構図が多いのも、それがありふれた庶民の夫婦像だったからでしょう。そう言えば『誹風柳多留』には、妻に怒られふて腐れる夫が川柳に描かれていました。
「女房にひげを抜き抜き叱られる」
現代でもありそうな光景です。
『本郷』No.63(2006年5月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第63回「夫婦のはなし」(3)を元に改稿しました