NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第2部が話題を呼んでいます。20世紀のはじめ、東アジアは列強の利権争奪戦の焦点となっていました。その中、若き「帝国」日本は自ら大国ロシアとの戦争の道を選びました。日露戦争の前夜から終結までを描いたこのドラマを見るとき、私たちは否応なく、緊張の高まる現代のこの地域のことを考えざるを得ません。一歩退いて、複眼的に歴史を見直すことから、問題解決の糸口がみいだせないか、そんな願いを込めて日露戦争の時代をウォークしてみたいと思います。
夏目漱石の『坊っちゃん』には、日露戦争の祝勝会の様子がさりげなく描かれています。「祝勝の式は頗る簡単なものだ。旅団長が祝詞を読む。知事が祝詞を読む。参列者が万歳を唱える。それで御しまいだ」。国家の戦いに熱狂することのない文学者の相貌が、鮮やかに浮んでいます。漱石の冷静さをもってこの「戦争の時代」を語ることは出来ませんが、しばし100年前の日本へ足を運びたいと思います。
近代日本が初めて体験した本格的対外戦争だった日清戦争。それから10年、日本は三国干渉で遼東半島の割譲を放棄させられたものの、清からの巨額の賠償金をもとに軍備の拡張に努め、列強勢力の一員へとのし上がりつつありました。ヨーロッパの列強間の均衡は崩れ、太平洋の東からアメリカ合衆国が本格的に東アジアに進出してくる一方、北清事変(義和団事件)に象徴される被抑圧民族の解放を目指す動きも始まっていました。東アジアを焦点に世界は激動の20世紀へと動いていたのです(井口和起著『日露戦争の時代』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。
日本とロシアは韓国の支配をめぐって激しい鍔迫り合いを演じていました。日本が駐韓公使三浦梧楼の指揮で閔妃殺害事件を起こし、親日政権の樹立を図れば、ロシアは朝鮮国王を自国の公使館に軟禁して、軍隊訓練士と財政顧問を派遣することを認めさせます。1900年(明治33)義和団事件が起きると両国は八ヵ国連合軍に参加し、ロシアは建設中の東支鉄道の保護を口実にして満洲を占領します。連合軍の主力を担った日本は、ロシアの極東進出に危機感を抱くイギリスと接近し、ついに1902年に日英同盟を結び、韓国での日本の政治・経済的優先権を認めさせることに成功します。列強の仲間入りが見えた――指導者も含めて多くの国民がそんな高揚した気分に浸ったことは間違いありません。それはロシアとの戦争の予感を孕んでいましたが、その目には8万6千余人の戦死者が見えていませんでした。
日本国民の間には、次第に大国ロシアの脅威に対する恐れと敵愾心が強くなって行きます。北清事変のさなかに、アムール河畔の町で起きた、ロシア軍による中国民衆の虐殺事件を題材にした第一高等学校の寮歌「アムール河の流血や」が広く歌われたのもこの頃でした。こうした感情に素直に反応したのは少年たちでした。後に無政府主義者となる大杉栄は『自叙伝』の中で、陸軍幼年学校入学の頃を回想して、「三国干渉の張本であるロシアに対する、弔い合戦の要求…、ぼくらはたぎるように血をわかした」と書いています。日英同盟締結直後の八甲田山遭難事件は、199名が死亡するという大惨事でしたが、シベリアでの軍事作戦へ向けた訓練が行われていることを印象づけることともなりました。
1903年になっても、ロシア軍は満洲に居すわったままでした。そればかりか、韓清国境の鴨緑江河口付近の竜巌浦を占領して砲台を築き、ついにはこの地域一帯の租借まで韓国に要求します。ロシアの強硬姿勢に対し、日本でも開戦論が高まります。戦争は決まっていても、まず外交交渉を行うのが、イラク戦争に至るまで世界の常です。同年6月23日に御前会議が元老の伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨、参謀総長の大山巌、内閣総理大臣の桂太郎、海軍大臣の山本権兵衛、陸軍大臣の寺内正毅、外務大臣の小村寿太郎らの出席で開かれ、いわゆる「満韓交換論」での外交交渉方針が決定されます。しかし、交渉はほとんど進みませんでした。国内では学者や政治家から開戦論が噴出、戸水寛人ら東京帝国大学法科大学教授による七博士意見書が大きな関心を呼び、国民同盟会の近衛篤麿や玄洋社の頭山満たちは対露同志会を結成、『時事新報』をはじめ新聞各紙も「露国討つべし」と煽り立てます。
1904年2月4日、日本はロシアとの開戦を決定すると同時に軍事行動に入ります。明治天皇により宣戦の詔書が発せられたのは2月10日でした。戦争の大義は、ロシアによる不当な満洲占拠と「極東の平和」に求められました。もう一つ目につくのは、「凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ違算ナカラムコトヲ期セヨ」と国際法の遵守を強調している点です。人種を異とする先進国との戦争は初めての経験であり、野蛮人と見られることを警戒していたのです。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いたように、武士道の精神が残っていた当時の日本人たちが戦争中に示した、敵軍将兵に対する紳士的態度は、さまざまなエピソードとして語られています。戦争に巻き込まれた韓国、中国の人々に対する非道は別として……。
『本郷』No.53(2004年9月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第53回「日露戦争百年」(1)を元に改稿しました